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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

在りし日の 背を洗うごと 墓洗う

奥さんを亡くした方が、「和尚さん、なんであのポスターをはがしたんだい?」と言ってきた。「たしかに、あいつの背中を流したことはないよねェ」と。そのポスターには、
『在りし日の 背を洗うごと 墓洗う』と書いてありました。在りし日を思うと、たしかに奥さんの背中を流したことはないよねェと。
この方はお墓参りを通じて、亡くした奥様に、アチラ側に意識を向けていらっしゃいました。洗うときには背中を洗っているのだとは思いません。なにも“心”に思っても“無”いのでしょう。それをわたしたちは「無心」と言います。考えてもきりがないので落ちつくところが、「無心」です。

お彼岸は、一年のなかでも特別なお墓参りの期間です。
お墓参りとは、わたしたちがアチラ側に意識を向ける作法のひとつ。墓前にて目を閉じて手を合わせる。そうやって誰か・なにかのために祈るけれども、こころの中では自分がただひたすら祈っているだけ。不思議なことです。誰か・なにかのために祈ることが、かえって無心になる。アチラ側に意識を向けることが、自分のためにもなる瞬間です。
母の日の花がカーネーションに対し、父の日の花はバラだそうです(ひまわり等も)。どちらも今年は終わっていますが・・・では、お彼岸の花はなんでしょうか。彼岸花?
母の日や父の日は、母・父に感謝をとくにあらわす日。お世話になっている人に感謝をあらわすことの大切さを考えれば、お彼岸は亡き人に感謝をとくにあらわす日となるでしょう。墓参候補日は祥月命日、月命日、誕生日、結婚記念日、思いたった日などありますが、お彼岸は盆暮れ正月に並んでの墓参週間。
9月といえば、中秋の名月。運動会。秋のお彼岸です。彼岸とは雑節(ウナギを食べる土用も雑節)。お彼岸はお盆と同じく、季節の移り変わり・風情をかもしだすものです。
先月号、お盆休みを取らなければお盆は無くなってしまうかも・・と書きました。今月はさらに言ってみます。ちょっと強引ですが、わたしたちがお墓参りをしなければ、お彼岸(アチラ側)も無くなってしまう・・かもしれません?
彼岸は季節の移り変わり・風情ということで、陽岳寺も春・秋のお彼岸を盛り立てています。みなさんも墓参にいらっしゃいます。とても有難いことだと感じています。秋というとお彼岸なのだ、という意識は自然なことなのでしょうか。
彼岸とは「かの岸」、アチラ側のことです。向こうにアチラ側が見えるということは、此岸「この岸」コチラ側に私たちはいる、ということになります。ではアチラ側とはなんでしょうか?仏教的に言うと、悟っている状態・極楽浄土のことです。
春分と秋分の日は、夕日が真西に沈みます。その延長線上にあるのは西方極楽浄土、その彼岸に行きたいのでどうするか?修行をする。そんな期間がお彼岸だったのです。春と秋は気候がいいので修行をするのに適しているから・・という説もあります。
ただ・・いまの時代、修行といってもピンときません。修行=アチラ側に意識を向けることとしたなら、分かっていただけると思います。
臨済宗では、亡くなるとお浄土に行くんだよ、とは言いません。しかし、「アチラ側」とは申します。霊魂の存在云々は置いておきます、話しても分からないことは分からない。では分かっていることはなにか、「それでも、やっぱり」という心情が大切ということ。
7月や8月のお盆にくらべると4日間ではなく、お彼岸は一週間。長いです。長い分、最初の日を「彼岸の入り」、春分・秋分の日を「お中日」、最後の日を「彼岸明け」といって大切にします。また、お彼岸前後の土日にお墓参りされるかたは多いですよね。
お彼岸のような季節の移り変わり・風情とは、何かに付けてはお墓へと人を導くものです。それは何故か?そのお墓のしたに眠るものたち、親しかった亡き人、アチラ側、もちろん今生きている人への「追慕」のため、彼らに「出会う」ためだと思うのです。
追慕しなければ、想ってあげなければ、出会わなければ・・・その気持ちが皆さんを墓前へといざなうのかと思いました。
修行も、墓参も、共通するテーマは「意識をアチラ側に向ける」ことのようです。お彼岸に動かされる私達の心はここにあります。
一期一会という言葉があります。あなたとの出会い(一会)は人生のなかで一回きり(一期)という意味です。茶事からのことわざで、チャンスは一度きりなのだから最高のおもてなしをしましょう、となるわけなのですが。
かといって、目の前にいながらも出会っていないことがあるかもしれません。同じ空間にいるのに生返事、いてもいなくても同じ状態のことです。お茶をお出ししても、気持ちが通じていない。せっかくのチャンスなのに活かしきれてない!と・・普通ならなるでしょう。しかしそれもまた、一期一会ではあります。
さらに言えば、お茶をお出ししてお話しもして、お互い笑い合えたなら一期一会をやりきった!ことと言えるかも分からないことです。
出会えていなかったのなら、それもそれで一期一会、よいではないか・・と言えたら素敵なことです。無心の思いやりからの、最高のおもてなしがあってこそ。
一期一会は一回きりの出会いの状況を言いますが、無心の思いやりそのものも一期一会。
お墓参りも同じことが言えそうです。「追慕」のため、「出会う」ため、とは言うものの、本当に会うことができるかは分かりません。こちら次第のことです。でも、無心になって墓参すれば一期一会となり、それはつまり出会ったことになるのではないかと。
【墓参の作法】墓石を洗い、拭き、清める。花入れもキレイにして、花・水・好きなものやお線香をお供えして、目を閉じて手を合わせる。
・・そのとき何も考えていない時間は数秒はあるはずです。ここで私はアチラ側に出会えていると考えます。相手を思いやるということは私心がないということ。無心であることが一期一会の前提条件でもあり、一期一会そのものとなるのですから。
ただ・・一期一会だとしても、会えなくても、会うならば何かを話したいものです。子どもが生まれたから、亡くなっているけれども盆暮れ正月の挨拶に、進学・就職・結婚の報告。なにかの度の墓参は、わたしたちの心情のあらわれでした。
仏壇に手を合わせることも、お骨の眠る墓前にたたずむことも、お骨はないけれども家の象徴として石塔にお参りすることもです。
それにしても不思議なことです。出会うため、追慕・報告のため、何かのために私達は墓参します。何かのためにと頑張ることで、かえって無心となることができるのですから。
墓参しても会話ができるわけではありません。会うことができるわけではありません。それでも、話したい、出会いたい。失った言葉や出会いを求めて、墓前にたたずむ人間を私達は理解できます。
仏道修行の目的はコチラ側からアチラ側に行くことですが、なんのことはありません。コチラ側もアチラ側も隔てなければ全部一緒です。そう考えれば、すでにアチラ側に自分はいたわけですし、コチラ側に亡き人もいるわけです。
すでに与えられていた他者の言葉のなかに、私達は生きている事実に気づく。その人の言葉ではないものに、その人の言葉を聞くことができる。アチラ側に意識を向けること、無心となることで、私達の人生はもっと豊かになる。
お寺も皆さんとのかかわりを大切に思っています。墓参の際は立ち寄って欲しいと思います。(副住職)
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◎9月23日がお中日。20~26日が秋のお彼岸です。
☆ようがくじ坐禅会「不二の会(ぷにの会)」9/28(土)19:30~21:30☆
ようがくじ坐禅会「不二の会(ぷにの会)」
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