web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

畏敬の礼の心

お彼岸の月(三月と九月)の護寺会便りには、お彼岸の期間はいつですよというお知らせを入れるのですが。先月号は忘れてしまいました。

今年の秋のお彼岸は、お中日が二十二日でした。
例年秋分の日は二十三日なわけですが、今年は百年以上ぶりに九月二十二日がお中日だったわけです。
みなさん、よくお参りいただきました。墓地は色とりどりの仏花により、お花畑のようでした。もちろんお参りいただけなかった方もいらっしゃいます。ご安心を。代参いたします、ご連絡ください。
みなさんがお参りされるのは、なんとはなしに・・という方もいるかもしれません。でもきっと、畏敬の念からかと思います。その畏敬の念とは。

畏敬の礼の心

言い間違えてしまう言葉ってあると思います。
私がよく言い間違えてしまうのは、「お見舞い」と「お参り」。
「ちょっと病院へお参りに行ってくるよ」なんて、言ってる側としては笑い話になりますけれど、言われる側としては笑えませんね。
全然違うものではないか。どうやっても間違えないだろう。とおっしゃる方もいるでしょう。
でも、私はよく言い間違えてしまう。どうにか直せないものかと。ここは一つちゃんと考えてみましょう。
「お見舞い」と「お参り」の違いって?

お見舞いにも色々あります。挨拶としてのお見舞い(暑中見舞など)、選挙の陣中見舞い。
一般的には、災難や事故などによる怪我を負った人・病人のところを訪れて、慰めることでしょう。「ちょっと病院へお見舞いに」という具合で。
お参りは、神社・寺院・教会・墓廟などの宗教施設を訪れて、神仏や先祖に拝んだり、祈ったりすることです。

慰めたり、拝んだり、祈ったり。その行為の違いもあるのでしょうけれども、ここで注目してほしいのは、その行為の向かう相手です。
お見舞いは、生きている人間に対する行為です。お参り・参詣・参拝は、神仏や先祖に対する行為です。
向かう相手が生きている人間か、神仏・先祖かというのは、大きな問題です。
後者は一方的な行為であり、相手の返事がないことがいえます。
かえって前者は、双務的で、お見舞いにたいして「あぁよく来てくれたね」などと必ず返事があることが特徴です。
この点が、お見舞いとお参りの大きな違いでしょう。

行為から向かう相手を考えましたが、作法を考えてみます。作法とは、礼です。

礼や儀礼といった形式的な行為には、おおよそ二種類があります。一つは畏敬の礼、一つは和平の礼です。
畏敬の礼とは。
強いものや恐れおおいものに対する畏敬・尊敬の思い。この思いが形となったものが尊敬の礼です。たとえば、平身低頭し、三拝九拝したりする。神仏に対しても行いますし、人間に対しても行います。
和平の礼とは。
敵対する二者のあいだのものです。そして、休戦や平和協定をむすぶ。意見交換、交易をするというかたち。たとえば、警戒をゆるめている表現として、かぶとを脱いだり、頭を下げる作法。
そしてこの畏敬の礼と和平の礼は、時代を経るとともに、相互に交流し、同一になり別れては、発達していきます。

礼といえば孔子論語』です。
孔子は『論語』のなかで礼の大切さを述べています。また、しきりに礼はその形よりも心が大切であるとも話しています。
あるとき弟子が孔子に聞きました。礼の心がけとは何ですか?と。孔子こたえていわく。
礼は、それ奢らんよりはむしろ倹め。喪は、それ易まらんよりはむしろ戚しめ。(八佾篇)
礼といい礼という。玉帛をいわんや。楽といい楽という。鐘鼓をいわんや。(陽貨篇)
人にして不仁ならば礼をいかにせん。人にして不仁ならば、楽をいかにせん。(八佾篇)
礼儀が大切だと言うのは、祭礼に用いる玉や織物のことではない。礼儀に付随する音楽もそうで、りっぱな楽器も太鼓を用意すればいいというわけでもなく、うまく演奏できればいいというわけでもない。
心がけのなっていない人ならば、礼をしたって無意味であり。すばらしい音楽を奏でても無意味である。

謙虚な心が肝要であること。心がけのなっていない人は何をしても無意味である。と。
祭礼を重んじることで敬虔の心をそだてることが大切なのだと言うのです。

孔子のいう「礼」は、畏敬の礼としていました。人間同士の関係。君主と臣下との関係であってもです。
君主は臣を使うに礼を以てする(八佾篇)
ただそれは、畏敬の礼を君主は持つべきだということではなく。君主が自分を律するためのものでした。
孔子は礼は形よりも心であること。その心とは、「畏敬」であることを述べています。

後世、礼にとっての最要はなにか、と相互に交流し発達していきました。
礼は心が大事である。その心は和平の礼だ。いやまずは形あってのことだ。孔子にしか本当のところは分からないのだから、形だけしていればいいのだ。など。
そもそも孔子の礼楽尊重は、形ばかりにとらわれる政治から、文化的・徳治的政治を盛行するためでした。
肝心なことは、自分を律するためにも、祭礼をおこなう心は畏敬の礼であることです。また、人間同士においても、やりたい放題にならないように、敬の心をもつほうがいい。自分のためにと。

礼の第一は、天と宗廟に対してです。恐れおおいもの、神や精霊や霊魂に対する畏敬の念です。
畏敬や感謝の気持ちの大切さを、孔子が述べてくれているような気がいたします。
そう考えると、お見舞いもお参りも、たいして違いはないのではないかとも思うのですが・・。でも、病院へのお参りはちょっと変ですね。(副住職)

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