web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

名前

仏教の開祖である「お釈迦様」は、いろいろな名前をお持ちでした。
ガウタマ・シッダールタ」は、出家前の名前。
「仏陀(ブッダ)」は、サンスクリット語で、目覚めた人・体解した人・悟った者などの意味が、個人名化したもの。
釈迦牟尼(しゃかむに)仏」は、釈迦族の聖者という意味の尊称。
「釈尊(しゃくそん)」「釈迦如来」「世尊(せそん)」など。
仏教という視点を外してみれば、彼は「(シャーキャ族の)王子」でしたし、「(妻子持ちの男)夫・父」でした。


なぜ彼はこのように色々な名前で呼ばれたのでしょうか。
それは彼が、私たちと同じ人間だから、縁という世界に生きる者だからです。


どんなものにも、名前や呼び名があります。
しかし、その名前や呼び名は、状況によって変化します。
たとえば、私は副住職ですが、「副住職」「新命(しんめい)さん」と呼ばれます。住職は、「ご住職」です。
陽岳寺の和尚への視線のなかで、違いを探ろうとすると・・こうした違いが呼び名にあらわれます。
しかし、和尚という視点を外してみれば、二人とも「向井さん」でもあり、「父と息子」ともなります。


名前や呼び名は、状況によって変化します。
相手を結びつきのなかで認識することによって、私も、相手も、お互いの存在が具体的になるからです。
相対することによって、はじめて名前が付けられるといえます。
会社なら、部下がいて上司がいる。店員やバイトがいて、店長がいる。


役割が名前となるもの。
さいたるものは家族の一員としての自分でしょう。
人は、親と出会えば息子・娘となり、祖父母と出会えば孫となり、兄と出会えば妹・弟となり、子どもと出会えば父親・母親となり、と名前や呼び名を変えていきます。
しかし、その関係性にある自分を見れば、親の前では息子・娘でしかなく。息子・娘の前では父親・母親でしかない。


夫婦も同じことがいえます。
妻と夫の関係はお互いがいてこそ、夫婦として認められます。
お互いを尊敬し、感謝をせずに、夫婦というかたちを取り続けることは難しいことです。


うつりかわる自分という存在を、確固たるものとして持ち続けることは大変なエネルギーのいることです。
尊重しあい、支え合うことは、その誰かと生きることを楽にしてくれるかもしれません。
韓国の法頂和尚の詩「存在に向かう生き方」、はじめの部分です。

命をあたかも所有物のように思いなすから
われわれはその消滅を恐れる。
命は所有物ではなく
瞬間瞬間にあることだ。

自分の名前。自分の役割。自分の命。
たしかに名付けられはしたが、世間の人は母親はこうあるべきだ父親はこうあるべきだとそう言うけれど。
命をあたかも所有物のように思いなすから、その消滅を恐れる。

このことは、私たちがある癖を持っていることを教えてくれます。
自分が自分であることを疑わないために、なんでも自分中心に考えてしまう癖です。
その癖とは、たとえば私たちと自然はどうやって共存してきたか、今日の私たちの歴史から地球の歴史を考える等の行為のこと。
その癖を断じることです。


いろいろな名前や呼び名を持つということ。
生きるということは、姿や形を変えていくことです。
そのことに気付けば。
世間の言う、こうあるべきだという言葉に振り回されたりしないでしょう。
しかし、母親として父親として、自分として。瞬間瞬間あるように、なすことができるのではないかと。


思ったことがあります。
夫は朝行ってきますと仕事に出かける。妻は子育てに忙しく家にいる。夜、夫がお腹ペコペコで、疲れて家に帰ってくると、ご飯の用意がない。
こんなとき。妻は家にいるのだから、外で仕事をしていないのだから、夫のためにご飯くらい作るべきだ・・と非難するか?と。
子育ては大変です。家事も大変です。週に数日くらいなら仕方ないか?出前でも取るか?でも、ご飯くらい用意してくれよ・・。そう思うのは人情でしょう。
でも、私たちは生きています。人情に動かされるのも私たちですが、考えることができるのも私たち。
さらに、そんな思いも超えることができるのも私たちです。


その命、役割、名前は、所有物ではない。あたかも所有物のように思いなすことを止めよと法頂和尚は教えてくれます。


私たちが自然にひかれるのは、こういう点なのだと思います。
風は「風の存在意義は云々」と思って吹いているわけではないでしょう。それでも、風は風自身ビュウビュウと吹く。風は風に没入しながらも、風としてあらねばならない姿にくらまされていない。
自然はもともとひとつです。
風によって種が運ばれ、雲がわき、雨を降らす。そよ風、はげしい風、冷たい風と徹します。
だから、その名前や役割に固執しても、無関係だと意気込んでも、自分ではない。
風は「自分は風だ」と思わないように。


名前は、物事を区別すると同時に、結びつけることでもあります。世界は一つ。
名前や役割を拠り所とするなかで、置かれた場所に徹することが自分となる。


名前や呼び名に没入しながらも、「こうあらねばならない姿」に自身を振りまわされない。「生きるわたし」でいたいと思います。