web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

おおいに恥じよう

三悪業というものがある。三というのは「身口意」のことだ。
「身」は行動にうつしてはいけない、「口」は言葉にしてはいけない、「意」は心に思ってはいけない。
悪ということは、何かがあって悪とみなすわけである。その基準はなにか。戒律があるのも、ここによる。なにかのために、戒め律するのだ。
何のためか?・・・この質問が仏教でなされるときは、このためでしかない。
仏法。仏のおしえのため、である。
修行も、仏法を行い修めるためだし、布施も喜捨も通じていく。


ではその仏法とはなにか。たとえばここで「諸法無我」とする。
「我などない」という概念のために修行をしていく。
頭では分かっているのだ、「我などない」のだ・・と。しかし、そう思っている我はなにか?矛盾してないか?などと思ってしまう。ちなみに、仏法によくないことを知ることと、思うことはべつだ。
どうしてもよくないことをしてしまったり、寄り道をしてしまうだろう。だから戒律に頼るのであるし、懺悔をして心身清浄を誓う。


いじめも同じだ。どうしても起きてしまう(かもしれない)。でも、それを防ぐために自信の成長・教育などのため、いじめを行動にうつしてはいけない(身)、言葉にしてはいけない(口)、思ってもいけない(意)。
思ってはいけないけれども、いじめについて知っておかなければ、いじめをしないことも出来ない。この知ることと、思うことはべつだ。


知ることと思うことは別。修行は、この知ると思うを超える。
思うこともなく行うことができるまで修めることが修行である。
それじゃあ四六時中が修行なのではないかって、その通り。
もちろん、悪をやってしまうこともあるだろうし、なまけてしまうこともあるだろう。たとえ戒律に頼っていても。
定期的にチェックして大事件を防いたりするしかない。
でも、その前提には、どうしてもやっちゃうんだよね、ということを知っておく必要があるのだと僕は思う。


いくらいじめをなくそうと言っても、見てみぬフリをしたり、向き合う時間を取らなかったり。弱者をつくりあげることで、自分の地位が上がったつもりになって、しかも喜んでいる勘違い。彼らも弱者という立ち位置を得られているんだからという開き直り。
それらが社会的に認められているのを、私たち一人ひとりが恥じるところからはじめようではないか。知るだけ、思うだけではダメなのだ。恥ならば日本人にピッタリなはずだと。