行動神話と成長神話
本屋に行くと、自己啓発本・ハウツー本が平積みされているのが目立つ。
経営者も、いちサラリーマンも、先生も、お坊さんも、みんな(その体にされて)書いている。
坐禅会では、まあ坐れ、と言う。
理論は後からついてくる。とりあえず、やってみようぜ、やるだけなのだと。
もちろん、それなりに御託を並べますけれども、結局はこういう様なことを言いたいだけなのだ。
ハウツー本もそうだ。とりあえずやってみろと、これならハードル低いのではありませんか?と下手に出てくるか、俺のところまで来てみろ!と上手に出てくるか、のどちらかです。
行動神話。ゴチャゴチャ考えてないで、ひたすら当たってこい。数をこなせい。結果はあとから付いてくる。
成長神話。昨日より今日、今日より明日。ちゃんと拾ってこいよ、じゃなきゃ、なんの意味もないんだよ。勝たなきゃクズだ。それがすべてだ。
たしかに、行動したら何かを為した気になる。成長したと思ったときは爽快でしょう。が、それは錯覚。
救いと癒し
パスカルは、すべては気晴らしだと言った。仕事も、その合間の休息も、死へ向かう人生の気晴らし。
『夏までに痩せる!あと2週間で出来るダイエット』『これで同僚たちから抜きん出る!すぐ使える仕事術10』。付け焼刃にすぎない手助けは、一瞬のわりにコストが高く運試しの要素が強い。
では、一発逆転を狙うよりは、こつこつ活動し、どこかで明確に結果を出すことがいいのか。
いな。こつこつ活動することにより、どこかで明確に結果が出ていくのだ。
「救い」と「癒し」をここに用意するとしたら、「救い」は一時的気晴らしであり、「癒し」は継続的気晴らしと考えるかもしれない。
だが、それは違う。回心・改心が「救い」であり、信仰が「癒し」なのだ。思い続けること、それが「癒し」。
救いがきっかけとなり、きっかけが救いとなる。信仰が癒しとなり、癒しが信仰となる。
行動神話と成長神話は、現代の救いとはならない。そして癒しにも。
何十年単位で使ってきたコレは、もう時代には合わない。トリガーにはならないのだ。
神話ではなく、イメージとベクトルくらいに思っていた方がいい。
まぁ坐れ、と言った。坐禅至上主義が目的地ではなく、坐禅自体が目的なのだ。坐禅をしてどうこうしようと言うのではなくて、坐禅によって坐禅する。手段が目的。
- 作者: 小池心叟
- 出版社/メーカー: 山手書房
- 発売日: 1985/08
- メディア: ?
- この商品を含むブログ (1件) を見る