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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

なぜ仏教について語るのか

なぜ仏教について語るのか。
それは、私にとって仏教はノンフィクションだから。


性や仕事というのは、アイデンティティに関わることです。
いわゆる性役割(いつか絶滅するだろう)や、この道一筋で生きてきました感・手に職感は、自己肯定感に絡んでこようとする。
多くの人と関係性を持ちながら、自分で自分を見つめざるをえない世の中。この実存問題、に対する答えを出すこと(別に完璧でなくてもいい問い)は永遠に続いていくものです。
宗教は、性や仕事の背後にあるものだと思う。
人生という問題を解くとき、問題文を読むわけだが、全体として見つめることが大切!!とだけ言っている人(状況とか。空気読めってやつだ)もいるだろうし。
細部にこそ、ディテールの中にこそ、重要なポイントがある!!とだけ言っている人(読んでないのでコメントできないとか)もいるだろう。


いいとこ取りだが、私は、空気読めも、人生の批評的読後感も、どちらも大切だと思う。
空気読めさを求めるところは、ノンフィクション=分かったつもりになりやすい。ので、そんな単純なものではないという前提を持って欲しいし(人間にとってみれば、常識・社会通念なんて鼻クソ程度の存在でしかないという事実を広めることが、宗教の役割だと思っていますが)。
ディテールにこだわるところは、仏教にどっぷり浸かっていない普通の人でも分かるような、読めるような。そんな内容=ノンフィクションなのだ。その世界の人にしか、なじみのない言語体系では目につかないだろうし、本当は絡んでいる世界だということを身につまされて欲しいんです。


最近テレビや新聞を見ていて思うんです。世界で起きていることを知らしめる理由は、これもお前の一部なんだよと教えるためなんじゃないかって。
映画も、小説も、ニュースも。殺人を犯す人も、救う人も、デモを起こす人も、地震も、円高も。報道もされないことも、報道されてはいるが違う視点でみれば隠されているかもしれない・知らされていないことも。
そんな混沌とした世界をひっくるめるのが、自分という孤独なんだ・・と分からしめるのが仏教であり、語る言葉はノンフィクションなのである(「その世界に生きること、生活」をしている人の言葉は、ノンフィクションでしょ?)。

昨日、第49回禅をきく講演会(【主催】臨済会・妙心寺派東京教区【協力】東京禅センター)の手伝いに行って思ったのでした。