無縁個人主義社会には本当に縁がないのか-近所づきあいで挨拶したら驚かれた、という話
twitterにて誘われ行ってまいりました。超宗派の勉強会in三田@さんじ会(明福寺)です。
最初に、講談社から出ている仏教聖典(友松円諦氏著というか訳というか)を輪読。
つぎに、今回は「無縁社会」に関連し、近所づきあいについて話をしました。
その場には、明治学院大学生&先生もいらっしゃいまして、どうやら授業と連動するイベントの打ち合わせ→引き続き、参加でした(2/3白金アンテナ@寺というイベント開催)。まさか後輩に出会えるなんて!少し嬉しかったり。
近所づきあいで挨拶したら驚かれた、という話
数日前『無縁社会の正体』の書評が新聞に出ていて、頭に残っていたのが、「縁のある個人主義」と「縁のない個人主義」という言葉でした。
近所づきあいについて、皆さん思ったことを述べていました。たとえば(本に載っているデータも)、
- 現代において近所づきあいをする時間はない。
- 用もないのに話しかけたりしないし、そんなこと考えもしない人がいる・・ということに驚いた。
- 機会がない。人と会わない。
- めんどくさい。わずらわしい。
- 気が合わない。プライバシーを守りたい。
あるお寺の和尚さんが話をしていた。隣に引っ越してきた人とは、まだ挨拶していたなかったそうで。ある朝、掃除をしていたら、垣根越しにお隣さんが見えたのだとか。挨拶をしたら、相手はビックリ「なんですか??」と。いやいや、お隣ですし、まだお話してないですし、挨拶ですよ・・・と、そこまで解説させるのかという話。
二世帯、三世帯というかたちから、核家族・個人で暮らすことが当たり前になっている都会のマンション群。
私は陽岳寺の副住職として、お坊さんとして、生きていますが、仏教ということで、ほかのお坊さんとの繋がりがあるはずと思っています。面識とか、確かな約束をしているというわけではないのですが、お坊さんたちは、どこかで繋がっているという確信、安心があります。
それは会ったことなんて無いけれども、何かあったときは助けるぞ、お互い様だぞ、という心の奥底にある・・・安心という受け皿です。
マンションでいうなれば、会ったりもしない、口も交わさない、壁一枚の隔たりはあるけれども、何かあったときは・・・。それは壁一枚によるお互いを尊敬する気持ち、個の尊敬なのだと思います。しかし、そこに縁がなかったら。
こういった現代の個が安心できるネットワーク、心の底にある安心という受け皿は、かたちとなって出てきやしないものかと思ったのでした。かたちとして出てきてしまうのは「縁のない個人主義」、孤独死などが代表でしょう。縁とは、かたちとして見えにくいものなのでしょうか、当たり前すぎて見過ごしてきたことなのでしょうか。安心という「縁のある個人主義」の「縁」となるものは、なんなのでしょうか。
関連本
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