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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

「自己紹介をしてみよう」-陽岳寺の法要って?

今週のお題「自己紹介をしてみよう」-陽岳寺の法要って?
 今日は陽岳寺について少し話をさせていただこうと思います。副住職として恩や責任を感じる日々ですが、情報を発信することでその恩や責任に返していこうと思います。

陽岳寺ってどんなお寺?

 陽岳寺の本尊は、千手千眼観音から、千手千眼をのぞいた姿の十一面観世音菩薩です。また脇侍(わきじ)といいまして、本尊の前に立って本尊を支え表現する仏像は、お地蔵さまと毘沙門天です。お地蔵さまが慈悲を表し、毘沙門天が智慧を表しています。
 毘沙門天の智慧を、深川の歴史を考えて、勇みとしてみました。そして慈悲を、情けと考えてみると、実に深川とピッタリと合うから不思議です。その勇みと情けを合わせて、『意気地(いくじ)』という言葉を引き出してみたのですが。深川の古老の言葉に、「意気地が無くなった」と、これこそ自己を見つめて問う言葉です。もう一つ若い人に『お侠(きゃん)』という言葉があったのですが、今は死語になっています。
 そして、ここから、「人に智慧と慈悲を、諦めと意気地を、勇みと情けの花を咲かすため、地蔵菩薩と毘沙門天を引き連れて創造されたその化身だからこそ、気がつけば、欲すれば、呼びかけに応じてすぐ傍に、佇み、包み、人を覆います。それは、自分自身に自由であることの全てを、思い出させるためにです」と。
 葛西橋通りと清澄通りという大きな道路の境にあり、高いマンションや他の寺院に囲まれ、小さいながらも地域の人たちに親しんでもらえるよう頑張っております。

陽岳寺の法要って?-意味不明でありがたいのか

 お寺というと皆さんが思い浮かべるのは「死んだあとにお世話になるところ」なのだと思います。実際は陽岳寺も、通夜葬儀・法事が皆さんと関わる宗務として、メインになっています。昔から寺院は様々なかたちで利用し、利用されてきました。葬送儀礼もその一つです。
 陽岳寺は、臨済宗の寺院として、禅宗である臨済宗の信者さんに向けて、法要を考えています。言うなれば法要とは、通夜葬儀・年回忌も、護寺会便りも、このブログも含むのだと思います。
 これは、親御さんなどが他宗教の信者であろうとも関係がなく。施主となる貴方の「信」を問う、ということです。
 そして、伝統を重んじているばかりではなく、相手相手によって対応する(法要を考えている)、ということでもあります。
 不立文字、何物もことばでは正確に伝えることができないかもしれません。さらに、意味不明でありがたいでしょうか。陽岳寺の考えや思いを法要を通し、貴方に問います。その結果が、一つには、今現在陽岳寺でおこなわれている回向のかたちとなっているにすぎません。お釈迦様、先人の言葉や、詩・歌など、さまざまに道具を用います。貴方に届いてほしいと。

通夜・葬儀は「○○さんとのお別れの会」ではありません/Funeral is not funeral"service"(a farewell party)

 通夜・葬儀は「葬送儀礼」であって、「お別れの会」ではありません。含まれることもあるかもしれませんけれども。
 そして、通夜・葬儀は、先に逝った親しい人たちの死を、受け入れること(また、昇華すること)のためです。とまどい、怒り、悲しみ、ありのままを受け入れんがために。その始まりとなります。だれか自分にとって親しい人が死んだとき。その悲しみをどうやって受け止めればいいのか。人の死を考えることは、なかなか難しいと思います。死について考えることは容易ではないし、まして親しい者の死となると、当事者になってみなければわからないでしょう。たとえ自分が当事者になったことがあったとしても、日が経つにつれ、さまざまな感情は薄れゆくかもしれません。どうにもならない感情を、どうにかすること。その手助けとなるだと私は思います。
 では、いったい通夜・葬儀とは何か。社会に向けて告知をすること、みなで一緒に悲しむこと、懐かしむこと。確かにそうです。しかし、こうとも私は考えます。
 葬送儀礼として、「仏様にすべてをおまかせする」ことなのではないかと。
 あの人が先に逝ったことを知り、遺族は、とまどい、怒り、悲しみ、何かをよりどころにする。そう信じるために、法要はあるのだろうと思うのです。

法事(年回忌)は定期的なケア/Regular care for the bereaved family

 枕経、通夜・葬儀ののちにある、七日参り、納骨、月行、一周忌、三回忌、〜回忌とは、定期的に行われる遺族の心のケア機会なのでしょう。お施餓鬼などの寺院側発信の不定期なケアもあります。そして、お墓参り、月行などの遺族側発信のケア依頼。寺院による葬儀・法事というシステムは、故人に関係する人に対してのソーシャルサポートとして、提供されるべくして存在するものなのだと思います。宗教とは、人によりそった存在なのだということです。
 たとえば、13回忌は称名忌といったりもします。元気な遺族が、故人の名前を呼んであげること。我々の健康が故人との縁を大切にしていることになるのだと思います。言うなれば、ひとつの法事なのかもしれません。


陽岳寺の法要が、健康に、和やかに、逞しく人生を生きる手助けになればと考えます。陽岳寺ができることとは何なのだろうと思います。