web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

新年のごあいさつ


明けまして、おめでとうございます。今年もまた、住職が年賀状の文面を考えていました。

臨済禅をマスターした西田幾多郎氏は、「個物は個物に対して個物である」と悟った。
箇が箇であるためには、箇がなければ、私とはならない。
それは、箇は箇を含んで箇となると言い換えることができる。
その箇が真に箇となるために、箇は無心となることが必然であると……。
箇の孤独さが、社会問題になるたびに、箇の弧を悩む。
本来、人は、自分自身の目では見えないけれど、みな手をつないで生きているはずだ。
問題は手をつないでいる中味だ。
いじめも、虐待も含めて、すべての事件は、手をつないでいなければ起こらない事件だからだ。
今年こそ、よい年であったと、誰もが言えるような、そんな一年の箇であることを願っています。

年賀状の内容は、朝日新聞の特集「孤族の国」が少し影響しているようでした。
年末年始と、墓参の方々が多くいらっしゃいます。皆さんから、護寺会便りを読みましたよ!新命さんって呼ぶんですね!との言葉をいただくと、あぁ皆さん読んでくれているんだなと思い。また、住職がこれまで連綿と続けてきたことの意味を考えさせられるのでした。

『年賀状 生きてる証に 投函し』

修行道場にいたのは、3年と少しでしたが、この間わたしは年賀状を出しておりませんでした。3年も連絡を取っていないと、元日わたしに届く年賀状の枚数は1枚のみ。さすがに寂しい状態であります。
しかし、檀信徒の皆様からの年賀状を一枚一枚見ておりますと、住職、寺内宛とともに、副住職宛ともなっている年賀状を見つけました。昨年、護寺会便りをお送りしてよかった、副住職として私のことを認めてくれているのだなと、嬉しく思いました。ありがとうございます!


新聞の川柳や投稿欄を見ていると、年賀状についてのものが多く見られました。
『年賀状 生きてる証に 投函し』
これは第23回サラリーマン川柳にあったものです。
まるで年賀状は「元気で生きているよ!」という安否確認手段のようです。やめようと思えば、やめられることです。それでも、手をつなぎたい、つないでいたい。そう思わせるものは、いったい何でしょうか。陽岳寺の葬儀の回向に「生まれれば縁が広がり、亡くなれば、また縁が広がる」とあります。生きることとは、命とは、生きるためにあるのだと思います。なんびとたりとも、その生を邪魔することなど出来やしないのです。たとえ臨床の立場から死んだのだと判断されても、その人を知る人々の心のなかで彼(女)は生きている。生まれれば縁が広がり、亡くなれば、また縁が広がる。そう考えると、人はなかなか死ねないのだとも思います。
自分で命を断つことはできても、つながりは自分では絶つことができない。そう信じています。
朝日新聞の特集は、とても身につまされます。陽岳寺ができることとは何なのだろうと思うのでした。
今年こそ、よい年であったと、誰もが言えるような、そんな一年の箇であることを願っています。
陽岳副住 合掌
asahi.com(朝日新聞社):孤族の国 - ニュース特集