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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】目に見えない地獄

【コラム】目に見えない地獄

American Beauty and Judgement
陽岳寺臨済宗という宗派のお寺です。臨済宗と申しますと、京都の金閣寺や、とんちで有名な一休さんが知られています。
そんな臨済宗、長い歴史のなかで衰退することもございました。しかし、いまの臨済宗があるのは、江戸時代に活躍した、とある禅師のおかげ・・・と言われております。
中興の祖、白隠慧鶴(はくいん えかく)禅師。彼は幼少の頃、地獄をおそれ、出家を志したと言われています。
 
「地」下の牢「獄」、「地獄」。人は死後、えんま様の裁きを受け、悪人は地獄へ行く・・・自身も知らぬ間に行われた悪行も裁きを受けるとして、幼き白隠禅師は絶望したとのこと。
いまでも「嘘をついていると閻魔様に舌を抜かれるよ」と言ったりしますが、これは閻魔様が実在しているという意識から出てくる言葉でありましょう。
白隠禅師もおそれた地獄。市井の人びとは、江戸時代よりも昔から、地獄への恐怖を身に感じながら暮らしていました。
奈良~平安時代の『日本霊異記』には善因楽果悪因苦果という因果応報の説話がおさめられています。そのなかに、”いま目の前に地獄があらわれる“というお話しがあります。
遠い未来か近い将来、もしかしたら自分は地獄に連れていかれるのかもしれない。黄泉の国が現世からの延長線上にある。現世とつながりのある場所としての地獄の世界を、古人は実感として持っていたようです。
そんな地獄の風景を絵にした「地獄絵」。後白河法皇が描かせたとされる地獄草紙や、浮世絵や現代画まで多くの地獄絵が日本には存在しています。こうして地獄絵という「目に見えない絶望を、目に見えるかたちにする」ことは不思議に思えます。わざわざコワイ思いをしたいのでしょうか。
目に見えるかたちにする意図は何でしょうか。理由は色々と考えられますが、ひとつには、目に見えないからといってないがしろにしてはいけないこともある、と知っているからなのでは。
気にしすぎるのも困りものですが、目に見えない世界を恐れるのは、見えないが故に分からないからです。見えれば心構えを持つことができますし、すぐに具体的な対策を講じることもできます。
東日本大震災から早5年、時間の過ぎ去ることが速い場所にいるとその影を見ることは難しいことです。原子力発電所という負の遺産の解決方法と、原発代替エネルギー探しもどこかへ行ってしまった。
しかし、目に見えない巨大な絶望はどこにも去っていません。目に見えるものにとらわれ、目に入らないからと忘れてしまったかのようです。
古人にとっての地獄とは、いま自分たちが生きている現実と続いている場所。目に見えない絶望でした。
わたしたちのまわりにも、いま自分たちが生きている現実と地続きの、目に見えない絶望がないだろうか。そして、目に見えない絶望を直視しないまま刹那的に日々を暮らしていないだろうか。
もちろん本当につらいときは休むべきです。忘れるべきです。
目に見えないからといってないがしろにしないように、と。現世とつながりのある場所としての異世界を実感として持つように、と。日本霊異記の説話や、地獄絵は教えてくれています。
一攫千金やうまい話しなど存在しないように、泥くさく、地道という王道を歩みつづけるしかない。私たちの生活のなかに、現世とつながりのある黄泉の国を実感として持てるような、目に見えるかたちを持つことが大切なようです。(副住職)