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下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】色をつける

【コラム】色をつける

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photo by Andy Woo

子どもが生まれて早3ヶ月。毎月こうして彼のことを題材に書いていますが、子どもの様子とは見ていて飽きないのは何故なのでしょうか。
その理由をひとつ挙げるならば、第一子だから、と言っていいかもしれません。珍しい、子どもを持つ、親になるという、初めての経験に頭がいっぱいになるからです。

少しずつ笑顔らしい笑顔を見せてくれるようになりました。
近くで動くものを目で追いますし、自分に話しかけられる言葉をマネしようと頑張りもします。口の動きをじっと見つめてマネする姿は、真剣そのものです。
そして「我が子は天才だな」と続くわけですが・・・色眼鏡も甚だしいですね。
しかし私たちとしては、なにかしら色のついた眼鏡をかけずして、この世界を見ることなど出来ないのかもしれません。

新生児微笑。新生児期特有の本人としては笑っていないのに、笑っているように見える微笑のことだそうです。
あやすと笑ってくれるのですが、その笑みとは新生児微笑であって、いわゆる「笑顔」ではありません。しかし、まわりの大人としては「笑ってくれた」と思うわけです。
「笑ってくれた」という行為を分解してみれば、新生児微笑という現象にたいして、「自分がしたことに反応してくれた」という意味や理由である色をつけた・・・と。
さらに子どもの様子を見ていて飽きないのはなぜか、という想いを分解してみれば、子どもの様子を見るのは、自身の種を引き継ぐ彼を守らなければならないという本能としてみたとき・・・種の保存への本能に対して、「見ていて飽きない」という色をつけている・・・とも。

仏教では、先入観・偏見・わたしという色をつけずに生きることを勧めます。その方が生きやすいからと。
そうは言っても、自分にとって分かりやすい色をつけたくなる、色がないと生きにくいのが現実です。だからこそ、アレは身体に良い、リラックスできる、いつものやり方だから、と色をつける。
しかし、生きにくい事実とは、かえって色をつけているからこそ・・・と考えてみます。
色をつければ区別しやすくなります。たとえば、「納豆は体にいい」。しかし、「納豆は体にいい」という色が固定されてしまったとき、色をつけてしまったがゆえの弊害が見えてきます。納豆だけを食べていれば大丈夫・・・なわけではありませんし、納豆を毎日食べなければとプレッシャーになりかねません。大豆アレルギーの方には毒となります。根拠が正しくても、つけた色に振り回されてしまうことは生きにくく辛いのです。

子どもが「笑ってくれた」と思う程度の色ならば問題はなさそうです。しかし、私たちが新しい色をつけなくても、そもそも美しい色を見せてくれているはずなのです。
だからこそ仏教は私たちに、色眼鏡などかける必要はないと分からないか?と問いを投げかけてきます。
初めての経験は、人を不安にさせ、焦りを生み、行為へと走らせるのだなと実感する毎日です。現代社会の色も大切ですが、生まれたばかりのこの子の原色を見つめたいと思います。

来年の干支は丙申(ひのえ・さる)だそうです。悪が滅し去る、人々は活気づき盛んに伸びようとする年と言えるでしょうか。
みなさまにとって来年も良い年となりますようご祈念いたします。