web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】成長

【コラム】成長

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photo by huntz

子どもが生まれて早2ヶ月。この世に生まれ落ちたときから体重が倍に成長しました。おっぱい飲んでネンネしてを繰り返す子どもを見ていると、成長とは一体何なのかを考えてしまいます。
みんな始めはこんなに小さかった、それが・・・。

年月が過ぎるごとに人間の世界に順応していく凄さを間近で見ながらも、私も成長した結果でしょうか、順応する以前の頃を覚えていないことを思い知らされます。
ヨチヨチ歩きを始めた頃、公園や原っぱは大草原でした。自分の背丈くらいの木々や花々は新鮮に見えたことでしょう。
いまでこそ電車や車で遠出できますが、幼い頃はおつかいで家の近所に行くだけでも大冒険です。
できないことができるようになる。そうして当たり前になり、いつしか忘れ、いつしか順応し、意思・記憶・行為は上書きされ、これからも忘れていくのでしょう。
しかし、できないことができるようになること=成長、この視点は正しいだろうか。

大人から見れば子どもとは未熟なものです。食べものをこぼすし、トイレもできない、夜泣きをする。おつかいができて偉い、組み体操が無事完成して良かった。
自己肯定感や自尊心を高めることは大切ですが、「ほんとうに子どものため」よりも「誰かのこうしたい」が過度に先行してしまうことは避けたいものです。
ほんとうに子どものために。周囲の人間の勝手ではなく、子どもの自由さをもとに成長について考えてみます。
子どもの自由さ。自由という言葉には、権力からの開放という側面が強いものです。更に新しいことをする自由もあるでしょう。
権力「からの自由」と、新しいことを「する自由」。二つの自由をふまえ、成長とは、「自由からの自由」と考えてはどうか。
食べものをこぼす、トイレの仕方が違う、夜泣きとは、親の庇護・意識・常識からの自由さではありません。親としては、ちゃんとトイレをしてほしい、夜は安心して眠ってほしい。そんな親の視線など気にしない子どもの自由さは、親の常識など範疇にないのですから、「からの自由」ではありません。する自由がある、となんて子どもは思いもしませんから「する自由」でもない。
そんな思い(からの・する自由)からも自由であること、これこそが「自由からの自由」です。

自由からの自由

不当な制約も、理不尽な犠牲も、押しつけられた選択からも、からの自由・する自由からも。本当に自由でいることを表した言葉を、自由自在と言います。
自由自在とは禅の言葉ですが、自らに由り、自ら在る。ただ在ること、ありのままにあることです。
老後のためには準備をしなければいけない。わたしの人生を歩むためにはこれが無ければいけない。この肩書き、生き甲斐だけが私そのもの。・・・そんな生きる意味や理由なんてそもそも必要はない、大丈夫!私たちは本来自由なのだと、子どもの姿は体現してくれているようです。
だからこそ、子どもの姿にはまわりの注目が集まるのかもしれません。その輝きの大きさが視線を集め、その輝きのまぶしさが子どもを型にはめようとしてしまう。
あるべくようにある、自由をこえた自由さを現しているかどうか。生物や物事の量と質が発達・発展する方向性のひとつとして、自由からの自由さは大切ではないかと。

そうは言っても、子どもにはちゃんとして欲しいと思ってしまうのが、親や家族の性なのか。そこでぐっとこらえられることこそが成長の証なのか。子どもの成長を通して、むしろ見つめる側の成長が試されているようです。(副住職)

◎ご祈祷会のお知らせに書き損じがございました。今年の演芸会は漫才と落語です。江戸独楽はございません。失礼致しました。