web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】一周すると(私見:四法印)

【コラム】一周すると(私見:四法印

一周すると楽になる。そんなことがあると思います。
辛くても頑張っていると楽しくなる、嫌いは好きの裏返し、一周することで見方が変わるわけです。

さて、地球上にはさまざまな宗教があります。キリスト教イスラーム道教、そして仏教。そのなかの枝分かれまで数えれば、きりがありません。
さて、種類があるということは、それぞれに違いがあるということです。そして、「これが**だ」と特徴や違いを示す前提がそれぞれにあるわけですが・・・。
こういった見方をするのが仏教である、という三つ、または四つ説いたものがあります。それを、三法印(または四法印)といいます。三つの仏法(仏のおしえ)のしるし、ということです。

諸行無常とは、世の中はうつりかわること・ものだらけであると表しています。
諸法無我とは、すべてのこと・ものは、もともと自分ひとりだけでは存在できないと表しています。
涅槃寂静とは、「こころの平安・平和」にいるのは楽しいことを表しています。
一切皆苦とは、そうは言っても、「こころの平安・平和」のなかにずっと留まっていることはできないし、人生辛いこともある。
一切皆苦をいれて四法印、のぞいて三法印といって、これらは仏教において大切にされていることです。
しごく当たり前のことのようですが、この事実を本当にそうだよなと納得できるか、実践できるかが大事になってきます。それができれば安心できるからです。
仏教のはじまりをつくった人、お釈迦様は、生きるも死ぬも苦しみである、と看破されました。元も子もないような言葉ですが、この教えが平成の世まで伝わっている理由は、一周まわってたどり着いた、地に足の付いた答えだからなのではないか・・・と思っています。
毎日おなじことの繰り返しでも、快不快など思い通りにならないことが必ず起こり、イヤだなと感じること多々。
そのままであってほしいけれど、私も、公園の木も、空の雲も、太陽も、会社も、ずっと同じ形をしているものはありません。
なんといっても、会社はお客さんがいなければ存在できませんし、公園の木も太陽光・水・空気がなければ枯れてしまう。まわりとの繋がりがなければ“わたし(それ自体)”といえるものはないのですから。
頑なにならず、芯がありつつも、常に変わりつづける気の持ちようがあれば、「こころの平安・平和」にいることができる。
・・・とここまで、一切皆苦諸行無常諸法無我涅槃寂静、と並んできました。しかし、もう一度、一切皆苦へと戻ってきたい。
われわれとしては「こころの平安・平和」にいつづけたいと思うものですが、お釈迦様は違いました。それもまた、諸行無常なので、いつづけることなどできないからです。ではどうすればいいか。一周して戻ってくるしかない。
この世の苦しみを看破し、どうすればよいか修行をして、世の真理を修めたお釈迦様としては、つらいことから逃れるのではなく、つらいことのなかに安心をもとめていく。この人間らしさにこそ、仏道のどろくさい、現実的な部分があると思います。