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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】本当の助け

001_新命便り

【コラム】本当の助け

先日、子どもが生まれました。このお便りがみなさまのところに届くころには、生後四週間ほどでしょうか。
新生児の生活は、泣いては寝てのくりかえしです。まだ一ヶ月にもならないので、手で物をつかむ・・・ということが出来ません。足で空を蹴ったり、手を動かしたりと、身体をふらふらさせています。
首もすわっていませんし、骨の具合もふにゃふにゃで、とても不安定です。
手を動かす様子を見ていると、なにかを掴もうとしているのか、なにか探しているのか、欲しがっているのか、安心したいのか。必死な様子がみてとれます。
おかあさんのおっぱいを見つけて、飲みながら安心しているとき。飲み終わって安心しているときとは大違いです。

春秋のお彼岸の中日二時半より、お彼岸法要を厳修しております。今年も檀信徒の方々が参列されました。
法要の後、住職がすこし話をしていましたが、はなしのさわりにヨーロッパでの難民についてふれていました。
彼らは住み家や仕事を失い、手放し、祖国をはなれ、助けを求めています。
その助けとは、なんでしょうか。
自分の行きつく先も分からない。ドイツに行くのか、行けるのか。電車に乗れるのか。仕事・住み家・家族はどうすれば。なぜこんなことになってしまったのか。
とりあえずの住居や仕事も、彼らの求める助けでしょう。しかし、目下のことは本当にほしい助けではないでしょう。
本当の助けとは、祖国が元通りになって欲しい。いままでの暮らしを返して欲しい。・・・といった自分、家族や社会の「こころの平安・平和」です。
また、福島県原発周辺には住むことが制限されている地域があります。自主避難をした方々もいて、彼ら避難民が求めていることも同じではないか。ニュースを見て、もし自分が・・と思わなくとも胸が痛みます。

『放てば手に満てり(弁道話)』とは曹洞宗で有名な道元禅師の言葉ですが、『安心とは、手の中にはおさまりきらないほど、どこにでもある』という意味です。
赤ちゃんにとっては、どうでしょうか。
掴もうとしなくても、親が赤ちゃんのことを見守っているので、すでに安心はあるわけですから、ふらふらしなくてもいい。
それでも、いまの身体の不安定さからか、身体をうごかしては、「こころの平安・平和」ではなく、目の前の安心を掴もうとする。おっぱいを見つけると、吐いても飲み、飲み終わるまでは離さない。
「こころの平安・平和」を探し求め、なんだ探さなくても目の前にあったじゃないか・・・と気づくことができたとき、やっと安心できるとは、複雑な気持ちになります。
しかし、赤ちゃんがおっぱいに満足して手放すことができるように、一度安心に気付いたならば、私たちもまた手放すことができるはずです。

他人の「こころの平安・平和」を害してまで、安心を掴み離そうとしないことは、いけないことです。その弊害が地球規模であらわれているようです。
自分の求めている本当の助けは「こころの平安・平和」であると気付くことができず、探し続けていることは辛い。
「こころの平安・平和」は手の中におさまりきらないほど、どこにでもあり、誰のものにでもなるという古人の言葉。
手を離してみろと言っても離さない、聞く耳をもたないところこそ、人間らしいと言えば人間らしいとも言えるけれど、赤ちゃんも大人も変わらないなと・・・赤ちゃんの様子を見ていて思ったのでした。