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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】誕生死

【コラム】誕生死

2010年の夏に陽岳寺へと戻ってきてからというもの、浅学非才の身には余るほどの、多くのご縁をいただいております。
本当に、陽岳寺は檀信徒のみなさまに支えて頂いているなと感じ入ります。ありがとうございます。
先日はそのご縁のひとつ、他宗派の勉強会にて「流産・死産」を経験されたお母様のお話しをうかがう機会をいただきました。
http://www.flickr.com/photos/44843078@N03/8542703730
photo by Kit4na
会うは別れの始まり・・と仏門では申しますけれども、「流産・死産」はとても悲しい出来事です。のぞむ/のぞまないに関わらず、妊娠は人生の大事件。そこに、なにより母親も父親も年若く人生経験の少ないなか、自分たちの身に未曾有の事件が起きたことへの衝撃たるや。備えることもしないことでしょう。
勉強会では、「流産・死産」についての定義や原因など分かっていること。流産・死産経験者のたどるこころの変化・特徴的感情。そして当事者のお母様が自身の経験をお話しされました。
また当事者の親御さんたちに、事前アンケートを実施。お寺との関わり・要望についての回答をうけて、意見交換(パネルディスカッション)がなされました。
物理的・情緒的なサポートとして、お寺ができることはないか。
通夜葬儀、法事、年中行事とお勤めさせていただいておりますが、様々な喪主・施主さまがいらっしゃいます。当然「流産・死産」経験者の方も。
そして、ものごとには流れがあります。その流れを把握しておくことは、お互いの理解を深める、近づくことにつながるようです。ガンであれば、おもな治療法として放射線抗がん剤などがあり、投薬の影響で口内炎が痛いんですよね・・など。
「流産・死産」であれば、妊娠から流産・死産診断後の流れ、当事者が自分を責める主な理由等知っておきたいことばかりです。
当事者に起こりうること、適切な介入方法、仏教的に正しい当事者が受け入れやすい死生観や救い、を考える勉強会でした。

勉強会での多くの気付きのなかで、みなさんと共有したいことが2つあります。
ひとつは「流産・死産であろうと、何歳であろうとも、子どもを亡くすことの悲しみに違いはない」ということです。
言葉をかけたり、お話しをするときには、この事実に気をつけることです。
いくつになっても、親は親であり、子どもは子どもです。老齢の親が、ご自身の若いころに流産した子の供養をする。親子がともに年を重ねてきたなかで、子どもが先に逝ってしまう。それぞれに年齢や境遇の違いはありますが、比べることはできません。悲しいことは悲しいのです。
だからこそ、流産・死産した「我が子は、世間の認識など関係なく、この子をひとりの人間として認めてほしい」と親御さんは考えます。
当たり前の事実ですが、形となるものが残っていようがいまいが、赤ちゃんは生きていたという事実。ふつうの人間として、私たちと何も変わらず、尊い命を持って生まれてきたことは、供養など私たちの行為すべての土台になることなのでしょう。
このコラムは誕生死と題しましたが、この言葉は10年以上前に出版された本により広まったと聞きます。水子という言葉・イメージ・歴史には、使いたくない、暗い、差別的ではないかという意見があり、代替の言葉が求められたようです。

身近な人の死や喪失を経験して、どのようなこころの動き・変化があるか。色々な説がありますが、そのうちのひとつを紹介します。5つの流れ(ショック→否認→悲しみと怒り→適応→再起・次の人生を歩きだす)を経るというものです。
ショックの時期とは、何も考えられない時期のことです。自分のこころとからだで受け入れることができないほど大事件が起きたとき、脳がシャットダウンするのでしょう。たとえるなら妊娠という幸せから、流産・死産というドンゾコへ突き落とされたときのことでしょうか。
つぎに、否認の時期へとうつります。ショックが多少薄れてきて、現実をすこし垣間見えるようになってきます。しかし、受け入れられないことに変わりはありません。
悲しみと怒りの時期。現実を否認することもできなくなり、実感しはじめる時期です。我が子が亡くなった理由をさがしはじめ、自分やまわりを責める。一見悲しそうにしていない夫を攻撃する、誰にも言えなくて孤独のなかで悲しむ。とことん悲しむことも必要ではあるのですが、過ぎるは毒なようです。
人間とは不思議なもので、適応をはかろうとします。たくさんのなぜ?を重ねるうちに、自分なりの答えへとたどり着くプロセスが大切です。無かったことにせず、死を死のままにとらえる。このとき適切なサポートが良い影響をおよぼします。
最後に、再起・次の人生を歩きだす時期になります。我が子の死を現実として受け止めて、自分の人生を歩きだすことができるか。親自らが、自分の体験に理由・意味を見出し、我が子とともに人生を歩んでいる、自分の一部として信じられる時期です。

この最後の再起・次の人生を歩き出す時期・・が共有したいことの2つめ、「父親と母親だけが当事者であり、子どものためにも、当事者が自分なりに意味を見出すことが大切になる」ということです。
アンケートにおいて、お寺での供養をしたかどうか聞いていました。想定よりも、供養をした人々が多かったという結果がでました。ただし中身を見てみると、2パターンに分かれていました。ひとつは、当事者の意思ではなく、まわりの意見や風潮に流された人々。もうひとつは、きちんと供養したい、自分たちの手で送りたい・・という当事者の気持ちがお寺での供養という形になっている人々でした。
誕生死のお子さんの葬儀や法事とは、仏さまに一同見守られるなかで、「あの子もふつうの人間と一緒だ」と存在を認め、家族それぞれに思うことは微細に違うけれども「悲しいよね」という思いを共有する行為です。いろいろな供養の形があります。これからも学んでまいります。(副住職)

参考リンク

流産・死産経験者で作るポコズママの会pocosmama.babymilk.jp

誕生死

誕生死

ともに生きる―たとえ産声をあげなくとも

ともに生きる―たとえ産声をあげなくとも

あとがき

書いていて悩みました。これは誰に向けて書いている文章なのだろう。お坊さん向けなのだろうか、当事者向けなのだろうか、とくに誰と決めてはいないが檀家さん向けだろうか。
ただ「勉強会に行ってきました。えっへん」といった内容では、読む甲斐がありません。そのため、誕生死、流産・死産に関してのお話し・・・にはしましたが、誰もが必ず出会う「死」に寄った文章としました。
ひとりひとりにストーリーがあり、他人から受け取った言動があり、揺れる感情があります。誰というわけではなく、あなたのために、という気持ちで書いていますが、今回はあまり強く押し出していない形にしました。そのぶん中途半端になっているかもしれませんが。
人間や命あるものという存在は、矛盾をはらんでいます。「死」があるからこそ、「いま生きている」ことを実感できるという矛盾です。若い世代にとっては、「死」を身近に感じることがあまりないせいで・・「いま生きている」からこそ頑張ったり感謝したりする・・ことが難しいようです。実際は身近にあるのですが気付かないだけで。
「死」「別れ」とは忌むべきものではなく、必ず意味があること、避けなくてもいいことです。片付けなければならない仕事のように、しっかり体力と時間をとって向き合う。そのサポートをしていきたいと思っています。