web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】不幸中の幸い

【コラム】不幸中の幸い

「不幸中の幸い」ということわざがあります。
意味は、「不幸のなかにある、救いや慰め」です。
日本人というのは、この「不幸中の幸い」のプロなのではと思うことが多々あります。
テレビや新聞をにぎわすニュースの、『落としどころ・着地点』として「いいこと探し」を使うことが多いからです。
たとえば先日、AKB握手会事件がありましたが、ケガが大事にいたらなかったこと。
PC遠隔操作事件がありましたが、犯人が自尽しないで生きていてくれたこと。
ふだんの何気ない会話の、「それはよかったわね」という言葉も同じです。
どことなく誰もが安心して話を終えることができる。良いイメージを共通認識することによって、意義ある会話や時間と認め合いたい。
かといって、なあなあにして終わるような、ぬか喜びではありません。
たしかに、不幸はありました。不幸やダメだったことを認めてから、顔をあげる。落ちこんだならば昇るだけだという、次の一手にかける努力です。
救いや慰めから、次のステップへ。

では、不幸中の幸いが無い場合はどうなるのでしょうか。
たとえば、韓国の船の転覆の事件。歩行者天国に車が進入した事件。地下鉄に薬物がまかれた事件。モンスターペアレントにより学校の先生が萎縮する。原発の事故。
すべて人災です。
二度と起こさないことを誓い、想定外を予想するように対策することです。
それでも、予想を超えたことは起きる。まさか、切りつけてくるとは。つっこんでくるとは。平和利用以外に使われるとは。
モンスターペアレント・想定外の事件・クレーマーといった、大変に少ない確率の「不幸」のために時間や手間暇をかけることに疑問をもつ時もあります。
しかし、いつ私たち自身が「不幸」そのものとなるのかは分かりません。
幸と不幸の違いなど、ほんの少しでしかありはしない。
まさかの裏には、わたしには絶対にない、という根拠のない確信が隠れている…。

だからこそ、必ず起こる不幸に対して、幸いを見出してきたのが私たち日本人です。
しかし、私たちはゆるい絶望感の中、いろいろな事件を起こしてしまうようになりました。秋葉原歩行者天国のように、PC遠隔操作事件のように。

ここで大切なのは、「不幸」と「ゆるい絶望感」を混雑しないことです。
「不幸」は、企業や施設のシステムとして備えがあれば防ぐことができました。たとえば、原発の事故や船の転覆です。ここでは不幸中の幸い、希望や救いを見出すことができます。
「ゆるい絶望感」は違います。ひとりひとりの気持ちの問題です。
切りつけてやろう、つっこんでやろう、自分の人生をおしまいにしてやろう、という気持ち。しかも、はげしい嫉妬や憎しみではない「ゆるい絶望感」からの言動。
「ゆるい絶望感」は、社会というシステムで防ぐことができるかもしれません。
でもその前に、ひとりひとりが自信を持って、信念をもって、生活する。
まじめに生活していることへの確信が必要です。病になることもある、それでも心おだやかに。『いまを暮らしていることのありがたさ』を意識する。
幸いはすぐそばにあると信じましょう。

  • 一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
  • 人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう
  • 生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう