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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】4年目

001_新命便り

【コラム】4年目

「どうして上司は分かってくれないのだろう。(わたしは頑張っているのに!やきもきしているのに!そんなつもりじゃないのに!タイムリミットがあるのに!)」
「あの人の考えていることは、まったく分からない。(なんでそういう風に思うのかな、バカなのではないか、ものを知らないのではないか)」
人は追い詰められると、自分のパターンにはまって、まわりが見えなくなります。まわりが見えなくなるということは、自分以外のことを考えることができない、自分の世界の論理でものを見るということ。他者の存在が消えるのです。
消えるのは他者だけではないようです。
「自分は、なぜあんなことをしてしまったのだろうか。(自分で自分が分からない)」
自分の存在も見失ってしまう。
《本当の自分はどこにいるのか?》
この疑問にふりまわされて悩むことを『自分探し』と言ったりしますが、どこかに自分がいなければならない、と自分で自分を追い詰めているために出てくる行為のようです。冒頭の上司をこころのなかで責める人も、他者を理解しない人も。ではなぜ悩むのでしょうか、まわりが見えなくなるのでしょうか、自分のパターンにはまるのでしょうか。
ひとつには、自分に自信がないから。
ひとつには、環境や周囲の影響。
これらに共通していることは自覚がない、ということです。自分のパターンが絶対だと信じている人はそのように思い込んでいるのですから、自覚はありません。環境や周囲の影響は目に見えませんから気付きにくい。
人のしぐさや考え方は、環境や周囲の影響でその人に浸透していきます。
『生き方や考え方を変えるには、付き合う人や場所を変えること』と古人は言いました。
わたしたちは、環境に適応する能力を持った生きものです。しかし、この能力は一長一短。パターンにはまれば生きやすくもなれば、はみだせば生きにくくもなる。あちらを立てればこちらが立たずは当たり前なのに、従来パターンでどうにかしようとして失敗する。
解決の糸口は、見えないものを言葉にすることです。目に見えるかたちに自分でしてみることです。習慣(自分で自分を追い詰めている、自分のパターンに逃げ込んでいる、色眼鏡で見る)という自分で自分の見えない持ち物を点検していくと、なに・どこに自分を持っていたのかに気付きます。
2011年3月11日金曜日、東日本大震災が起こり、今年で4年目となります。
キズナという言葉が流行し、地縁に注目があつまりました。しかし、その後キズナという言葉は地縁よりも狭い血縁へと、意味が閉じてしまいました。信用信頼は、家族や血縁にしかないのだというあきらめ。その家族や血縁というキズナは、血が混ざらないと、他人をいれないと広がらないという事実を見ないキズナです。自覚がない。
キズナを血(同じ・変えられようのない・可能性が広がらないもの)というパターンに落とし込んだのは誰でしょうか。
それをしたのは、わたしたちだという自覚。環境や周囲の影響に同調することは楽ですが、キズナを血縁という可能性に狭めてしまったように、わたしたちは自分で自分の首をしめる。自覚がなければ、上司のことも分からず、他人の考えも分かりません。
すべて認識のずれです。自分と他人の、認識のずれ。自分のなかにもある、認識のずれ。
あなたは本当にそう思っているのか。自分はイヤだ、好きだ、分からないことだ、と断じていないか?
認識のずれを自覚して、東日本大震災4年目をむかえたい。そう思いませんか。(副住職)
◎春彼岸は3月18(火)~24(月)日、お中日は21日(金・祝)です。