web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

Have A Nice Day!

ここ数日、日本の方ではない人々とお話しする機会が多かったのですが。別れ際、かならず言われる言葉がありました。それは・・・
「Have A Nice Day!」
さようなら程度の意味で使っているのでしょう。
「よい一日を」という意味ですが、この言葉は相手のことを気遣う優しさの表れのようです。

挨拶とはなんとなく聞き流してしまう言葉ですが、ここですこし考えてみたいと思います。
「よい一日を」のよい一日とは、どのような一日なのでしょうか?
わたしにとってよい一日なのか、あなたにとってよい一日なのか。わるい一日で無いなら、よい一日といえるか。

仏教には、西洋の人間観とは大きく違う部分があります。
それは、絶対と言えるパーソナリティなど考えられない、としていることです。
なればこそ、仏教は絶対ではないもの、つまり人間の心の動きの中に興味を見出します。
心の動き=人間らしさ、だと仏教は考える・・と言ってもいいかもしれません。

仏教は人間の心の動きの中に興味を見出すと言いましたが、よいわるい両方ともにです。
むしろ、わずかでも心の動きが生まれるのならば、老いも病いも、花も美味なる料理も、“よい”と考える。

こう考えてみると、「よい一日」とは・・よいわるいを超越した一日のことだと捉えることが出来ると思います。かといって、とても大きく動かされる出来事が頻繁に起こってもらっては困るわけですが・・。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
               是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ

新潟の三条市にて起こったかつての地震。被災した山田杜皐に宛てた良寛の手紙の一文です。
頑張れ!と言われるまでもなく十分に頑張っている、そんな人間に宛てた一見冷たすぎる、しかし温かな言葉。
災難に遭う時節も、死ぬる時節も、Nice Dayに通じていると思いました。そして、つぎの禅語を思い出したのでした。

唐の時代、雲門文偃(うんもん ぶんえん)という禅師がいらっしゃいました。彼による禅語や逸話は現在も有名です。ひとつには、茶掛けにもあります、「日日是好日」という言葉です。
【白文】
示衆云、十五日已前不問爾、十五日已後道將一句來。代云、日日是好日。(雲門匡真禪師廣録)
【書き下し文】
(雲門が)衆に示して云く、十五日已前は爾に問わず、十五日已後一句を云い将ち来たれ。
(雲門が)代わって云く、日日是好日。
【現代語訳】
雲門禅師が修行者たちに言いました。「これまで(十五日以前)のことは、あなたたちには尋ねないぞ。これから(十五日以後)のことについて聞くのだ、さぁ何か一句を言え。」
修行中、禅問答は日常茶飯事。いろいろな問いが、いろいろな時に投げつけられます。さぁ雲門禅師の問いかけに応えられるものはいたのでしょうか?
~この間が存在しています。誰も答えられなかったのか、誰の答えにも満足いかなかったのか分かりません。雲門禅師はしびれを切らします~
雲門禅師が修行者たちに代わって言います。「日日是好日」と。

これからの日々は好日である。
いいことも、わるいこともあるでしょう。それでもどんな時も現実なのだと見据えた上で、生きていくしかない。うつろいゆく世界に身をゆだねる自分を、よりどころとして生きていくしかない。現実が残酷であるからこそ、そのまま救いともなると考えます。

雲門禅師の言う「日日是好日」とは、良寛の「遭う時節」、「よい一日を」のよい一日、と考えることが出来ないでしょうか。

2011年3月11日、東日本大震災。そのほかにも凄惨な出来事は、日々地球上で起こっています。そのような、万が一の不幸をも「よい一日」。
気休めの「日日是好日」ではありません。ちょっと嫌なことがあっての「日日是好日」ではないのです。市販の風邪薬、栄養ドリンクや点滴ほどのものではないのがこの言葉です。
それゆえに私たちが「日日是好日」だと言うことは、なかなか出来ないことでしょう。しかし実際には、私たちは考えもせずに口に出してもいるのです。それは挨拶のことです。
「Have Nice A Day!」日本語ではどうなるでしょう。「いいお天気ですね」「ええ本当に。おかげさまで」。これからのことを、挨拶はみなに問うているのだと考えてみたのでした。