web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて

2011年3月11日の東日本大震災。あれから二年が経ちます。
また、親しかったあの人がいなくなって何年経ったのでしょうか。時間が経つにつれて、人の心は動き、変わっていくものです。その確認のチャンスが墓参や法要にはあります。もちろん、この護寺会便りにもです。そのチャンスを活かして、現実の生活を豊かにしていくために、諸行無常を「受け入れる」ことの意味を考えてみました。「受け入れる」とは、つらいときも、楽しいときも、すべてを日常という幸せに変える、私たち人間がもつ力のことです(副住職)

赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて

赤い風船が針にさされて破れても、心配はいらないよ
こわがることはない
目に見える風船はたしかに消えてなくなってしまう
だけど
中の空気は、お外に行って、このお空の空気とひとつになるだけだ


風船がやぶれて、風船の姿かたちは見えなくなるけれど
中の空気がお空の空気とひとつになるだけだ


我々の命も
死んでも終わりにはならない

大きな命と合流をして
また新たな命になってうまれてくる
だから、心配はいらないよ

病に伏せる子どもに、こう言ってきかせた父親である和尚さんがいました。
子どもながらに、この子は自分の命が短いと分かっていたようです。
この自分が消えてなくなると言われた時に、死というものをどう受け止めることができるでしょうか。まして子どもですから、きっと不安があったはずです。そんな時、こわがる子どもを見て、父親は優しく声をかけたのでした。
自分なんていうものは、風船と同じで、はじけて消えてなくなる。
しかし、その根本は、中の空気と外の空気とひとつになる。そして大きな命と合流して、また新たな命となってうまれてくる。この永遠なるものに気付いたとき、人は死の恐れから解放されるのだと。


おととしの3月11日、この自分が消えてなくなるんだということを、日本中の人が、同時に、思い知らされました。まるで病に伏せる子どものように、死という事実をつきつけられたのでした。波にさらわれた人、地震や津波のニュースを見た人、私たちのことです。
そして東日本大震災の事実の大きさを、人々は受け入れることができませんでした。その副作用として、私だけは大丈夫だと買いだめに走り、情報は大切だとデマが横行しました。


二年経った今。問題は山のようにありますが、時が経つにつれて、人々は受け入れるようになりました。受け入れなければ生きていけないからでもありましょう。受け入れることとは、生きることだと言い換えられるほどにです。それはつまり、受け入れることには、現実を豊かにしていく糧というチャンスがあると考えました。
生きることとは、受け入れることだと言えます。それでは、人は何を受け入れていくのでしょうか?それは、縁・出会いと言ってもよいのですが、“出会ったものごとすべて”とします。
たとえば、取捨、順逆、喜びと悲しみなど。私たちの出会うものごとには、対照的に見えることがあるようです。比べてみたときに、だいぶ違ってみえることです。その出会いの中から自分に良いことだけを受け入れること。それは同時に、悪いことの受け入れない癖にもなります。
受け入れない癖のついた人は、喜びや楽しみを受け入れることができません。片方だけしか受け入れようとしないのは、両方を見ないようにしている現れだからです。「喜びがあるから悲しみがあり、悲しみがあるから喜びがある」という事実を認めなければ、どちらも得ることはない。


生きるとは日々を暮らすということであり、それを日常と言うわけですが。3.11の東日本大震災は非日常でした。しかし波にさらわれた人にも、ニュースを見た人にも、日常はやってきます。
たとえ悲しみにくれていても、笑ってしまうこともあるでしょう。その光景は、不謹慎ではなくて、日常が返ってきた証拠。喜びも悲しみも、両方を受け入れることができている証なのだと思います。辛いことがあっても、かならず日常性は強くなる、という助けがここにはあります。


しかし、受け入れることを目的や前提にしたり、課せられた受容というものは、人生を豊かにしていく糧とはならない。受け入れさせられることは、人生のゴールではないからです。無条件に肯定するのではなくて、自分で考え自分で受け入れること。それが日々を暮らしていくということ、さらに言えば自分自身を大事にすることです。
ただ自分自身を大事にしようと思っていても、自分の心に入りきらないものを受いれざるを得ないとき、楽勝だと思っていたら心のなかで大きくなっているとき。無理するときがあるかもしれません。取り返しのつかないことになるときもあると考えたならば。受け入れなくてもいいものもあるという救いも必要です。
受け入れるということは、答えることの難しい問いを保持しつつ、閉じないでいることです。どのように向き合うか、自分ですこしずつ答えを出していくということです。
それが、諸行無常といわれるこの世界を生きる智慧です。諸行無常を受け入れることです。


すべては動き変化するというこの大きな真実を、東日本大震災は、巨大な自然の変化として私たちに実感させました。
それはつまり、私たちはあの東日本大震災に加担しているということです。3.11のことを気遣い、配慮をし、関心を持つということです。責任を持っているのです。俯瞰することは難しいけれど、みんなで共有することで、この世界を良くすることができるということです。
普通の暮らしの大切さは日常の中にあったのですが、みんな忘れていたわけです。すべては動き、変化するという自然。その自然を受け入れることが生きるということに、気付かされた。


変化を人が受け入れるとき、自分が愛すべき存在だと気付きます。愛すべき存在であることの幸せ、日常の幸せ。幸せとは、変化する今・ここ・わたしが基点となります。
幸せを私たちが考えるとき、それは自分自身、また家族のことが第一なはずです。それが自然なことです。そして、自分の幸せを誰かと共有するために、幸せな私が誰かのそばにいることが誰かの生きる力となるのだと、私は思います。
“寄り添う”ということですが、永遠なるものと私たちは寄り添っているのです。変化するこの世界を受け入れている。二年経った今、「受け入れる」ことの意味を確認することです。


不幸と言われるかもしれないけれど、絶望はしない。死とは、この世に別れを告げるとき、赤い風船が割れるときだと考えてみれば。針にさされて鳴るパチンという音は、別れを告げる音でもあり、永遠なるものと一つになる「さようなら」「ありがとう」という言葉なのだと思います。


すべてのものが絶え間なく動き、変化するこの世界。
諸行無常という、この大きな真実を受け入れるとき。人は、自分が変わってしまうことを楽しめるのだと思います。そして、他人が変わることを許すことだってできる。「受け入れる」とは、諸行無常とはポジティブなことなのです。