web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

聞く力

聞く力とは、自然や大いなるものと一つになる力のことです。
そして、その力を私たちは皆持っている、そう思います。

寄物陳思、きぶつちんし。
物に寄せて思いをのべる、という心理があります。万葉集にみえる、和歌の技法のことです。
これは、恋心を自然の情景にたとえてうたうこと。人を恋しいと思う気持ちを、波や花に託してよんだそうです。

単純に「好きだ!」と言葉でダイレクトに伝える。強い主張をこの技法からは感じられません。
自分はこのような気持ちでいたのだ、という証明が奥に見えます。

ひとつ例として紹介いたします。
「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知ら得ぬ恋は 苦しきものぞ」(大伴坂上郎女 巻8~1500)。
「夏の野草の繁みに埋もれて咲いている姫百合の花のように、相手に知られない恋は苦しいものだ」
現代の我々にはまわりくどいように感じる寄物陳思。
この和歌をみますと、聞いてほしい、わかってほしい、あなたに聞こうという姿勢になってほしい。という願いを感じないでしょうか。
また、人間という小さな存在の発する、少ない言葉よりも。自然という大きな存在に重ねることで、表現に深みや厚みを出すことができるようにも。
なにか大いなるものの声を「聞く力」を持つ日本人だからこそ。この和歌を詠むことが出来たのでしょうし、和歌から自然の声をきくことができるのだと思います。

この「聞く力」の大切さを、お釈迦様は説いている。そう考えたことがあります。
二月一五日は御釈迦様の命日と言われています
入滅の前、弟子たちに請われ、最後の説法をしました。それが有名な『自灯明、法灯明』です。

『汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように。』
『身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。』

他への依頼心を捨てよ、とおっしゃったのです。
法を、仏の教えととるか、世の理ととるか分かれますが、これで絶対だ・ずっと手をかけずにいてもよいというものはない、ということです。
究極にいえば、いままで学んできた仏教の教えに頼ることさえも止めよ、と。

私は御釈迦様の教えを聞いて実践している、だからこのまま行じていれば大丈夫という慢心が生まれるかもしれない。
お釈迦様は、そのように危惧したのではないかと。

諸行無常、世の中はすべてうつりかわる。うつりかわるどんな時代においても、暮らしていく真理はある。世の理をあるがままに見よ、聞けよ、と。
その時代時代の声を聞いていきなさい。そういう見方ができないでしょうか。

聞く力は、もっと些細なことにも当てはまるわけです。
たとえば、茶室へと続く露地にある留め石。竹をつかった柵。
「これより立ち入り禁止」と書かれていませんが、そのサインをうけとめることができるのは日本人だからです。
鎌倉にいたとき、外国からの観光客はみんな理解できず、またいで中へと入っていました。
線引きがされている、ここから先は何か違う空間ではないかという感受性です。

外国からの観光客だけではなく、日本人がサインに気付かない場合もあります。
ただその感受性も、使わなければ磨かなければ、くもっていくばかりかもしれません。
テレビでは、CMも番組もうるさくて仕方ありません。あなたが聞かなくてもいいから話しますとばかりに。作った笑いは際たる例です。CMでは、なぜ貴方が・・と出てこなくてもいい社長が悪目立ちしています。
「三方よし」といいますが、買い手・売り手、そして世間の三方がよかったよかったと納得できなければ商売ではない、という考え方があります。
本当にうるさく、短い時間だから我も我もと言葉や音楽をぶつけてくる印象しか持てません。世間は眼中にないようです。私と貴方が良ければ、別にいいじゃないですか、と。
慣れてしまえば楽かもしれませんが、作られた笑い声にひきづられた笑いは、本当に自分のものと言えるか・・。

静かなメッセージを聞く耳を持っている私たち。
言い換えてみると、静かなメッセージに気付くことができる。気付く心を持っている。その心と身を一つにすることができる人間。つまり、静かなメッセージと一心同体になることができる私たち、とも考えられないでしょうか。

はじめに挙げた寄物陳思とは、恋の感情を自然のものに例えての表現です。自分を自然に重ねるわけです。
しかし、本当にそこには「いまの自分」があるでしょうか?
言葉がものや自然に魂を与える、と言えますが。そのなかに私はいるのでしょうか?
自然に託した和歌の中の私から、恋心を抜け出ているのいまの私です。そうでなければ、自然と一体にはなれないからです。
「相手に知られない恋は苦しいものだ」という感情は、苦しいと思う自分を俯瞰している状況がなければ出てきません。
「恋は苦しい」の真っ只中にある人は、自分の苦しさをはかることも、気付くこともできないでしょう。
詠み人は、どこかで自然や大いなるものからのメッセージを聞いたのかもしれません。
そこに苦しいの真っ只中にいる自分を見つけた、聞いたのでしょう。苦しいと一つになっていた自分を、自然と一つになっている自分に重ねたのです。

お釈迦様は聞くための気付き、聞いたのちの確認も大切だと仰っています。自然や大いなるものの存在に気付き、声を聞いて、どうなのかと確認する。
聞いて分けるばかりではいけないようです。
昨年の二月号、住職が節分によせて書いていました。
二月三日は節分ですが、「鬼は外、福は内」と豆を投げます。
外と内、どこかで分けることをしているわけですが、その結界はどこにあるのでしょうか?また、鬼と福とは、どのように違うのでしょうか?
留め石や、竹の柵は、こちらとあちらを分ける結界です。結界により違いはあるけれども、分かれる前を考えれば自然と私たちの違いなどありはしない。
その感受性ゆえの弊害をも、お釈迦様は『自灯明、法灯明』と説いています。(副住職)