うしろの手
インドかタイかの、ことわざだった気がする。
あなたが虫を潰そうとするとき、あなたにも「うしろの手」が迫っていることを忘れてはならない…という内容。
先日、親鸞フォーラムへ行ってきた。会場はベルサール秋葉原。会場は2階で盛況でした。基調講演は姜尚中氏。パネリストは高村薫氏、鷲田清一氏など。
内容は、震災から一年経て…とざっくり。
話しを聞いていて(3度ほどコックリしたが)(とにかくパイプ椅子はお尻が痛い)、ふと頭に浮かんだのが冒頭の話しだった。
幼少のころ、地上のアリたちを攻撃したら、彼らが足掻いているのを見て、こりゃ理不尽だなと思ってことがあるけれど。人間も、なんや?なんや!なんや。と足掻くものだろう。
攻撃されたアリさんたちをどうにかすることは出来ないのだから、末は放置プレイだ。
それ天罰論とか安全神話とか、関東大震災で語り尽くされているらしい。なんの教訓も得ず繰り返しているように見える。
意図なくして虫を潰すことがあるわけなのだから、意図なくして「うしろの手」も迫るものだ。
天罰だろうと、戦後からの業だろうと、山河破れて国ありだろうと、うしろの手そのものは、目に見えない。見えるものだけが見える。
見えないものを見えるようにして、工夫するしかない。覚悟だとか、忘れない日本!だとか、頑張ろう東北!だとか。
分かりやすいものが素晴らしい、は極論だけど、緻密な計算がある分かりやすさイコール真理なのかもしれない。