web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

彼岸に思う

春のお彼岸。それは春分の日を真ん中に(お中日という)、一週間のことをいいます。


17日の土曜日、入りの日は、大変さむく、雨も降っており、皆さんいらっしゃるものだろうかと思っていました。昨年は東日本大震災の影響もあって墓参にいらっしゃる方の数は少なく感じました。今年もその影響をひきずるかもしれない、と思っていましたが。それでも、お彼岸だから、入りの日だから、と悪天候にも掛かわらずいらっしゃる方々。
そして今日は18日の日曜日。入りの日とは変わって晴れて・・という訳ではありませんでしたが、春はまた隠れたかという気候。15、16日とお彼岸前に墓参される方がいた分、はじめの土日の墓参者数は例年より少なく感じました。それでもたくさんの花々がお墓に供えられています。


夕方、燃えつきたお線香を取っていて、しずくの垂れる花々がお墓に供えられている風景を見て、ふと思いました。たくさん墓参されているように見えるけれども、天候を気にしてお中日等これから墓参されるお墓もあれば、春彼岸の一週間前後にお参りされないお墓もあるのだろうなと。お骨は入ってないけれどもお参りされるお墓、お参りされないお墓。やむをえない事情でお参りされるお墓、お参りされないお墓。
お電話やお手紙にて、代わりにお線香とお花を供えてくださいという方々がいらっしゃいます。もちろん結構です。どうぞご連絡ください。
そんなお墓の風景を眺め、なにかあったんだろうか。何もないかもしれない。と思いつつ、昼間に挨拶した墓参される方々以外にも、わたしは会っていない人がたくさんいる!ということにも気付いたのでした。
墓参される方々にも、わたしにはお名前が分からなかったり、自分のなかで何故か名前を取り違える人がいたり、と通り過ぎていく皆さん。
どこか自分の頭のなかに、みんなの死後わたしが引導をわたすのだ、という勝手な責任を背負っているからなのかとも思いました。思い上がりというか、自分勝手な思いと考えましたが、それほどの傲慢さ・したたかさがなければ住職にもなれないだろうと言い聞かせてみたり。


どうにかして過去のこととしたい(「あの」震災)、とフタをしたり、目を背けたり、自分にとって都合のいい解釈や意味としようとも。目の前に存在するものを無視するためには、どうしても無理(原発技術は無理なものです。違う方向を頑張るしかない。今あるものを廃炉するための技術だけが生きるとわたしは思います)。その無理を通すには、傲慢に生きる、したたかに生きること。通る無理も通らない無理もあるでしょう。
聞くことのできない、伝わらないメッセージはメッセージではありません。相手には伝わらなくても、自分には伝わります。東日本大震災と人災である原発事故で、わたしたちは十分にメッセージを思い知らされたはずです。伝わったはずです。そのための傲慢さ・したたかさを持っていこうと思ったのでした。