web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころ〜3.11東日本大震災1周忌回向

昨年3月11日の東北地方太平洋沖地震から、約1年。1年という時間は長かったでしょうか、短かったでしょうか。新しい年を迎えて、また内容を変える必要があると、回向をつくりました。
のこされた私たちが健康で戒めをもって暮らしていく姿を見せることが何よりの供養であるし、誓いの言葉として発声することは回向となると考えています。
人は、年単位で思い起こす生き物です。親しかったあの人がいなくなって何年でしょうか。震災に関係なく、読んでいただきたい。
現地にいるかたも、現地にはいないけれど日本という国にいるかたも、思いをめぐらし、般若心経を読んでいただければと思います。

ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころ〜3.11東日本大震災1周忌回向その3-読経・般若心経

2011年三月十一日午後2時46分。モーメントマグニチュード9.0の大地震が起きました。日本の三陸沖を震源とする地震と、その地震に伴う津波によって、多くの命が奪われました。
津波は、岩手、宮城、福島、茨城、千葉などの広い範囲に及びました。命を落とされた人々は、阪神大震災のときよりも多くなりました。戦後最悪の災害です。

その東日本大震災から一年が経ちます。


三月十一日から、一日一日。1、2、3ヶ月、百日と過ぎ、半年が過ぎて。一年という時間は長かったでしょうか、短かったでしょうか。人が生きるということは、自分という経験で裏打ちすることとも言えます。その自分という経験は、時間という揺らぐ心そのもの。あるようでない、ないようである、揺らぐ心そのものですから、自分・人が生きるということは、確かなものだと自信を持って言うことが難しいことです。


人はいろいろなものに思いを馳せます。あの場所。あの匂い。あの音。あの時間。
その理由は、どうしても何かしらの意味をつけたがるからでしょうか。人は自分という思いを起こす生き物です。
大震災から今日までの時間の流れを、「もう」一年と考えるか、「まだ」一年と考えるか。どんな意味を見いだそうとしているのでしょうか。
私たちが感じるその時間の長さ・短さは、私たちの命から溢れる思いのたけです。
風評が流れようと、放射線が降ろうと、生きるのは私たちの命あってこそです。石にかじりついても、この心臓は、この身体は動こうとします。


考えもつかない事でした。映画や小説にあるような出来事。今見えているこの世界は何なのか、何だったのか。テレビやラジオや新聞で、私たちの目には見えるけれども、どこか遠い国のことなんじゃないか。今でさえ。

関東・東北地方全域で停電がおきました。地盤沈下液状化現象がおきました。
東京タワーのNHKのアンテナが曲がり、減力放送になりました。
千葉県にある製油所でガスタンクが落下したことにより、大きな火災が起きました。
鉄道やバスなど多くの交通機関が止まり、多くの帰宅困難者が街を彷徨いました。
多くの企業が震災を受けて、CM放送を自粛しました。
そして、東京電力 福島第一原子力発電所事故から、全国の原子力発電所に、世界中に、不安と恐怖が広がっています。
一生消えることのないものです。日本に住む我々が、ずっと考えていくことです。


これからも続いていく人生のなかで、どうしても無視できないことはたくさんあります。
次から次へと目の前を過ぎ去っていく時間は、ひとつひとつ片付けていかないと、たくさんの宿題となって戻ってきます。どうしたらいいか。この問いこそが生きる力です。命そのものです。
大きな宿題となって私たち個人個人に。私たち一人一人の判断に迫ってきます。新聞をとるにも、就職をするにも、お店で何か買うにも、人と知り合うにも。すべては、無関心ではいられません。
しかし、どうすればよいのでしょうか。誰の言っていることが本当で、信じればいいのか、行動すればいいのか。生きていけばいいのか。
あまりの情報の多さに目を背けることも、逃げることもできず。どこかに正解があるはずだと、求め、彷徨う。
だれでも不安や恐怖を持っています。「目に見えない」「いつ来るか、いつ終わるか分からない」。自分にとっての拠り所を求め、彷徨う旅は、いつ終わるのでしょうか。


ここに一つの答えがあります。それは、「絶対の答えはない」ということです。同時にそれは、「人それぞれに、答えがある」とも言えます。
ある一定の答えが出るまでには時間が掛かります。何度も話し合い、聞くことです。話すということは、道を進むことだからです。
そして、その道を進むまで、進む途中を、静かに見守りましょう。
途中で、どうしても関係の無いことと関連づけてしまうかもしれません。たとえば怒り、興奮です。
また、不安や恐怖には、安心と信頼で向かいあう。「大丈夫」「いつでも傍についている」。自分ひとりで悩まないで。家族や友人に助けを求めて、協力してもらうことです。家族や友人との関係を絶たないことです。私は社会とつながっている、とつぶやいて欲しい。
そのためには戒めを持って暮らしていくことです。
仏教では人が生きていくなかで戒めを持つようにといいます。そして禅宗では今という一瞬一瞬を生ききるように!といいます。


過去の歴史を学び、未来の暮らしを見据え、いまを生活すること。過去と現在と未来。過去は過ぎ去った事実であり、未来は未だ来ない事実ですが、いま目を閉じて思い出し、想像してみれば、過去も未来も現在という一瞬の時間に現われることに気付きます。この時間は、過ぎ去った事実も、未だ来ない事実も、私という存在のなかにいるということです。そこで戒めを持たなければ。


大地が揺れて、建物が揺れて、海が揺れて、世界・すべてが揺れました。
考えても考えても、想定外のことは起こります。人が変わることは本当に難しいことです。いくら想定内を求めても、心の揺さぶられる力が働きます。
そして、もとに戻ろうと、良くなったり、悪くなったりを繰り返していく。
この揺り戻しがあるからこそ、人も町も強くなる。


失ったこともあるならば、得たこともあるでしょう。
揺れる心があるのだと。ゆるゆると生きていくのだと。それは、ゆるぎないこころ。
人を・自分を思いやるこころがあるのだと。それは、ゆるすこころ。


ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころ。
あまりの情報の多さに目をとらわれないで。目先の優しさにとらわれないで。
生きることに真剣に向き合っていれば、人間は自ずと変わっていく存在です。
すべては単純なことです。この身と心をもって、生きているという事実です。
生きることへの問いは、手近にある優しさだけでは説明できません。死への問いも含まれます。もちろん安心と信頼は生きる糧ともなります。
なぜ生きるのか。偶然にも受けたこの生は、なんなのか。この命・人生は自分から生まれたいと望んで受けたものか。この命・人生をどのように受け取るのか。
この偶然を素直に受け入れるだけでいいのか。その問いを、認識する機会を得たのだと。
この一年は、旅立った多くの人たちの命を通じた、大きな問いかけです。


オーストラリアの洪水も、ブラジルの洪水も、インドの寒波も、ニュージーランド地震も、あれから一年です。過ぎ去った一年は、どこへもいきはしません。
いろいろなことが起こります。しかし具体的には知らないことばかりです。時は過ぎていきます。JR福知山線脱線事故から8年、阪神淡路大震災から17年。それでも私たちにとっては、毎年毎年、その日その日を暮らしていくだけです。
そしてこの時間という事実には、人というのは思えることがあるのだと思います。ふと立ち止まって、言葉にしたければ言葉にすればいいし、胸にひめておくだけでもいいのです。もやもやしてもいいし、筋を通してもいい。
たしかに大きな出来事です。世界が変わるでしょう。そんな変わる世界を諸行無常といい、諸法無我を変わる自分といえば、目指すところの涅槃寂静とは、私たちが戒めを持って暮らすことなのでしょう。


それでは、これから般若心経をお読みします。この読経にのせて、この想いにのせて、ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころを思い起こしてください。
この読経は、先に逝った多くの人達のためです。そして、生きているものたち、日本・世界のすべてのためにです。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事をお祈りいたします。
<読経 般若心経>