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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

101_お坊さん映画レビュー

映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』公式サイト
死はまるで風のようです。それはどんなところにでも行きつき、いつ何時でも吹いているから。かといって風は人の目には見えないし、音もにおいも時間も風そのものとは言えません。しかし触れれば分かります、いま風が吹いたと。風は吹かれた人にしか分からないように、死は死者を前にしてはじめて存在が現われると言ってもよいでしょう。
しかしその死者という存在はもういません。目の前に現われなければ、なおさら。また死という概念や、死者という概念も知らなければ。
生きていたという記憶や証拠を並べ立てることは、よみがえらせることにはならず、むしろ死という事実を際立たせることばかりです。


死という概念も、死者という概念も知っているとしても。その人の死はその人の死でしかなく、自分の死そのものを理解することには繋がりません。同じように、彼の人にとっての死は彼の人にとっての死でしかなく、悲しんでも、むしろその死は分かり合えないという事実を際立たせることばかりです(少年は詳細を述べつづける)。
それでも人というのは分かり合おうと努力や歩み寄りをするものですが(人間だけが涙を流す)、どうしたって分かり合うことはできません(さまざまに思うことを言う・慰める人々)(言葉もなく、見つめることしかできない家族)。
そして多くの人との交流から学んだことは、それぞれがそれぞれの場所で立ち直るしかないということ。間に合うことは間に合うし、嫌なことは嫌だし、自分の求めている答えがそこにはないこともあるし、空っぽは空っぽのまま。
目を閉じれば、思い出してみれば、この心のなかにあるかもしれない、いるかもしれない。しかし、心のなかのぽっかりとあいた場所を全く埋める代わりのものなど、この世にはありはしないのである。あるとしたら、ぽっかりと抜けていったそのものではなく、真上にたつ霊廟だろうし。将来、土地は埋め尽くされ、あふれるかもしれないが、まだそのときは来ていません。分かってはいることですが。


生はまるで風のようです。風に舞いおちる姿も、風をきって漕ぐ姿も、生そのもののようですが、やはりそれぞれがそれぞれの場所で風を吹くしかないのでしょう。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

ものすごくうるさくて、ありえないほど近いとは編集