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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

坐禅は身ひとつあれば出来るゲーム

「坐禅は身ひとつあれば出来るゲーム」と考えられないか?
つべこべ言わずに、まぁ坐れというのだが。楽しみのために行うことと考えてみれば。
楽しみを求めることは、宗教行為ではないけれども。通過点としてならよいではないか??


このときのゲームとは、以下のことである。

カイヨワによる定義
フランス人社会学者のロジェ・カイヨワは、著書『遊びと人間』("Les jeux et les hommes")のなかで、以下のようにゲームを定義した。すなわち、楽しみのために行なわれること、時間と場所が区切られていること、勝敗が不確定であること、何かを生産するものではないこと、ルールに支配されること、現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていることである。
また彼は、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案した。
ゲーム - Wikipediaより引用

完全な一人遊び。

楽しみのために行われること

坐禅とは、内的なものを見つめ三昧にはいること、をさす。
こんな坐禅の方法論がある。調身、調息、調心。姿勢をととのえて、呼吸に集中すれば、自然と心も調う、と私は坐禅会にて言う。理解されやすいからです。
「よし、心を調えるぞ!」と思って調えることができる人間はいないでしょう(「今頭に思い浮かんだことを忘れて下さい」と言われると、何を考えていたかを思いだそうとするように)。しかし、調身・調息・調心という方法論にのっとり取り組むことは、姿勢を正して呼吸を数えること=おのずから心を調える、と言える。
なにかを求めた行動の結果。目的を得る・達成する・近づく・こえることが、楽しみであるとすれば。坐禅とは、楽しみのために行われることだろう。完全にルーティン化されれば(取り組もうという意識がなくなれば)、坐禅自体が目的となりうる。その楽しみさえも無くすのだが、その楽しみさえも無くすことも。

時間と場所が区切られていること

騒々しい場所でもいいが。見える世界もそのままに、聞こえる音もそのままに、かぐわしい匂いもそのままに、ありのままを肯定していくこと。ここで坐禅をするのだという意志決定から、その場に坐する訳だし。線香が無くなるまでなど時間を区切る訳だし。まま言える。

勝敗が不確定であること

今日はどうであったか、という自分へのフィードバックはある。その点で、自分で勝ち負けという判断基準を持ってくれば、確定されるかもしれないが。確定するものも、不確定するものも無いのだから、これは言えない・・・とも言えない。

何かを生産するものではないこと

生産するというよりは、そぎ落としていくものだろう。頭に浮かぶよしなしごとを、ひたすらに昇華していく、無くなっていく、無くしていくのだから。
じっさい、ここが一番ゲームらしいと私は思う。
あれをしなければ、これもいいな、それはいやだな、という思いをプチプチ潰しつくしていく点。全部なくすことが目的か、すること自体が目的か。

ルールに支配されること

それなりに姿勢はあるし、呼吸法もあるし、思考の部分もある、はず。

現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていること

釈迦六年、面壁九年してもいいですが、自分の内面を見つめ三昧にはいるのですから、その時間は切り離されているでしょう。仕事も家事も、と言うならば、まわりが見えなくなるようでは三昧とも言えないときもあるので、すわってする坐禅に限れば、そうかも。