幸福になることを誓わねばならない
12月号として予定していましたが、取りやめに。まだ花園12月号をお送りしていないのは、護寺会便りが出来ていないからです。お札と回忌お知らせが先に行ってしまうという事態に・・・。
その内容です。
以下、本文
大丈夫だよ、〜してもいいからね、と許可を与えるばかりでは、傍若無人・野放図でもいいんじゃないか、と思われても仕方がありません。勉強しなくてもいいんだよ、料理できなくてもいいんだよ、人を傷つけてもいいんだよ、という極論も許されるかに見えます。
当然、そんなことはありません。「許し」は同時に、「誓い」も必要となります。この関係は、義務と権利とは違います。
誓わねばならない
アラン『幸福論(93.誓わねばならない)』にある言葉です。
最初はどんなにおかしな考えに見えようとも、幸福になることを誓わねばならない。〜。憂鬱な思考はすべて、自分をだます魂胆だと思ってさしつかえない。そう考えてよい。なぜなら、われわれは何もしないでいると、すぐに自ずと不幸をつくり出してしまうものだから。退屈さがそれをあかししている。〜。われわれがいらだつのは自分自身の心の動揺である。
幸福になることの許しは、誓いと同時にあります。そして人は、幸福になることを誓わなければならない。それは自分に対しても、世界に対してもです。
人は誓わずにして生きているでしょうか。
お経は祈りや願いの言葉ですが、誓いの言葉でもあります。通夜葬儀でお読みする懺悔文・三帰依文も、四弘誓願文も。般若心経も、白隠禅師坐禅和讃も。回向文もです。
聞いている方は意味不明な呪文が流れているな、という感想でしょう。しかし、実践も伴うことが肝要なのです。あぁやってるなぁ、ではいけません。一生懸命、聞いていただきたい。出来ることなら一緒にお読み頂きたい。つまり、心と体を一つにすることです。
あの時こうしておけばよかった、または、気付かぬうちに何かしていたかもしれない、あぁ悪いことをした。生き物は本来清浄と誓って、仏法僧に帰依しますと宣言する。智慧と慈悲に目覚めるよう精進するし、まわりの人と親しくするよう頑張ります。気付きを大切にします、という誓いを、日々、心を新たに思うわけです。
その証拠が読経であり、合掌礼拝であり、修行なのです。そして禅宗では、修行は行住坐臥、日常生活すべてが修行であり、大切だと実感することとします。
「タマネギの皮はどこまでむくのですか」「米を洗うのに洗剤は?」総菜や冷凍食品などが増え、料理をしたことのない人が増えている。こうした世代に、包丁の持ち方から教える料理教室が人気を集めているそうです。
コンビニ・スーパーに行けば、大体なんだって売ってます。町の八百屋や総菜屋さんに取って代わっているんですから。そして時間もない。自然と、料理をしなくなるのは道理でしょう。
そして、もとの形を忘れ、恐れていく。
旬を思わない。どこから来たのか分からない食べ物を買う。お財布と相談するわけでもなく、安いからといって何も考えないで買い物かごへ入れていく。
血の滴るステーキや、尾頭付きの刺身・煮魚を嫌い、もとの姿が見えないハンバーグなどの加工食品を好む。
私が嫌いというわけではありません。練り物、ハンバーガー好きです。
「誓い」は身の回りに溢れているのに、「誓う」という行為を考えることが無いからでしょう。
食べ物を前にして「いただきます」と誓い、20回は噛まんと口の中にいれる。掃除せんと、ほっかむりをする。ご飯をつくろうと、エプロンをする。「おはよう」「おやすみ」「いってきます」「ただいま」と言う。出てきてはオギャーと泣き、ちょっと行ってくるよと亡き。
東に病気の子供あれば、行って看病してやり。西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い。南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい。北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい。日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き。みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず。
痰が絡んだのか苦しそうに呻き、何を訴えているのか目をあけて、聞いているのかピクリと反応がある。どくどくと心臓を動かしては血をめぐらせ、これが最後かしらんと息がでる。
すべて誓いの言葉とするなら、どうして退屈と言えるでしょうか。自分の心の動揺に、さらに揺さぶられ、いらだち、不幸を増す。どうせならばと、幸福を誓わん。
「自分の体験の上に存在し、経験によって大きくなるという心の中の龍。自分の龍を鍛錬して、感情などをコントロールすることが大切」と、ブータン国王は日本国民を励ましました。
ひとこと、感謝のことばを言ってみれば、重い気持ちは軽く。暗い気持ちは明るくなるはずです。そして、心からの感謝の言葉となって、まわりめぐって、自分へと返ってくる。情けは人のためならず。
あと1ヵ月で2011年も終わり、2012年となります。節電・自粛で喪中のようかと思えば、イルミネーションやクリスマスの飾りで町が彩られ、年末年始・お正月ムードにがらっと変わります。「旧年中はお世話になりました。今年も宜しくお願いします」と新年のあいさつ、お祝いのことばの交換です。
そのことばの交換の意味は、期待と現実との葛藤からです。不幸に対して強くあろうと、来年も良い年としようと。誓わずにはおられず、心から溢れる思いが形となっているのだと思います。
アラン『幸福論』
- 作者: アラン,Alain,神谷幹夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/01/16
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