web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

それでも人生にイエスと言う

「それでも人生にイエスと言う」 V.E. フランクルという方の本があります。内容については触れません。書名を知り、とても良い言葉だな、と私は思いました。
この言葉は、イエスと言い続けることを示します。
そして、その「イエスと言う」ことは、主体性を持ちつつも、自然につむぎだされることと思います。
「イエス」を人生の何に対して言い続けるのか。それは「出会い」です。
人は、おのずから、みずから、生きている。
「人生」とは、イエスと言い続けること。出会うことの繰り返しだと思いました。
独りよがりかもしれない出会いです。

出会うということ

生きていれば、色々なことに出会います。人だけでなく、動植物、事件、考えなど、すべてです。
自分だけが、また、多くの人が、出会うこともあります。
気付かずに過ぎ去ること、また、とても衝撃を受けることもあります。
報道や教科書など伝聞により出会うこと、また、直接見聞きして出会うこともあります。


直接・間接に関わらず、なにかに出会うこと。
目を開けていれば、視界は入ってきます(こんにちは副住職です)。鼻が詰まってなければ、嫌なにおいも、芳しい香りも入ってきます。胸に手を当てれば、鼓動を感じます。音がします。風を感じます。重力を感じます。
これらすべてを出会いとすれば、「いま、ここにいる、わたし」を大切にしようと確信します。しかし、出会うからこそ、「いま、ここにいる、わたし」の確信が揺れることもあるでしょう。
目の前にある事実。それが、自分の考えていた世界を逸脱していたとしたら?
実は、まだ出会っていなかっただけ。それでも人生にイエスと言えるのが私たちです。

社会問題の一つ、との出会い

先日、同宗連(『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議)主催による、第60回「同宗連」研修会に参加しました。2日に分けて、講師の方3名(トランスジェンダーの方々)の講演を聞きました(「セクシュアル・マイノリティについて」上川あや氏(東京都世田谷区区議会議員)、「宗教者とセクシュアル・マイノリティ」森なお氏(日本基督教団牧師・兵庫教区主事)、「性同一性障害について」虎井まさ衛氏(作家))。
お話を聞いて思ったのは、「性・性別とはなにか」ということでした。
男であるか女であるかは誰にでも分かることではなく、医学的にも性別の判定が難しいのです。とりあえず、分かりやすさとして、性を男・女で別にすることが続いています。
「性別」には社会制度がついてまわり、枠から外されているままの人たちは、婚姻・医療・仕事など、とても苦労をし続けていきます。
自分の性を考えることは、人生をどのようにして歩んでいくか考える上で、とても大切なことです。「いま、ここにいる、わたし」は何なのか。ふと立ち止まって、点検することです。
見たくないもの、嗅ぎたくないにおい、聞きたくない音、親しい物事との別れ等。受け入れたくない出会いがあるでしょう。しかし、受け入れないためには、受け入れなければ出来ないことです。
だからといって、すべての出会いを受け入れることはできません。それは、イエスと言い続ける「主語」を遮ること。「人は、おのずから、みずから、生きている」ことを遮ることは、人の尊厳を傷つけることです。この「人」は、他人でしょうか、自分でしょうか。
誰が出会いにイエスと言い続けるか?それは、「自分」以外にはいません。


私は外向的か内向的かと聞かれると、内向的だと思います。外で遊ぶことは、あまり好きではありませんでした。小学校では、担任の先生のおかげで、やっとプールに慣れることができたと記憶していますし。中学校に入って、バレーボール部に数ヶ月いましたが、やめてしまいました。大学生に入って、いわゆるガテン系のアルバイトをしようとも思いませんでした。
子どものころと、26となった今を比べるのはナンセンスかもしれませんが、外向的傾向は増したとは思います。
私よりももっと外向的な人もいるでしょうし、大人になってより内向的になる人もいるでしょう。
外向的なら、自分から進んで出会うことが多い、イエスと言う数が多ければ人生が豊かである、とは申しません。出会いの多さと人生の豊かさに相関関係はないでしょう。ただ、機会の格差はあるかもしれませんが。
外に出ていけば、視野が広がるでしょう。それでも、外向性に関係なく、(滅多にない)出会いもあるはずです。運まかせの出会い、といえばいいでしょうか。
陽岳寺は、皆さんとの月一回の出会い、この護寺会便りを大切にしています。顔を突き合わせてとなると、墓参・お盆などでしょうか。ツイッター、ホームページや電話をすれば、いつでも出会うことは出来ます(http://www.yougakuji.orghttp://twitter.com/yougakuji/)。

出会う対象によって人は姿を変えます

人は、親と出会えば息子・娘となり、祖父母と出会えば孫となり、夫・妻と出会えば妻・夫となり、子どもと出会えば父親・母親となり、孫と出会えば祖父母となり、と。姿や形を変えていきます。
しかし、その関係性にある自分を見れば、親の前では息子・娘でしかなく。息子・娘の前では父親・母親でしかない。
変わる世界を諸行無常と言い、変わる自分を諸法無我と言うならば、目指すところの涅槃寂静は、ただ一瞬一瞬を生きること。一瞬という時間は、終わりと始めという一瞬の繋がりです。その時をただひたすらに生きることが、禅宗の心。無心なる心です。


お釈迦様は無言という答えを出すことがありました。それもイエスでしょう。無言が正解になることだってあるはずです。どんな出会いも、正解だったと、幸せだったと思う願い。
「日々是好日」「直心是道場」「喫茶去」などの禅語が私たちに示してくれています。


最後に、「それでも人生にイエスと言う」にも掲載されている、タゴールの詩を紹介します。

私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く、すると、ごらん、
義務はよろこびだった。

参考図書

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う