web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

平成23年9月号 花園&陽岳寺護寺会便り、発送しました - 『物欲は世界を救う』か?


平成23年9月号花園&陽岳寺護寺会便りを発送しました。郵便局の集荷の方に引き渡し、お願いしました。もう皆様のお手元に届いているかと存じます。
今回は私、副住職作です。内容は、「『物欲は世界を救う』か?」です。


ご感想はブログにでも、メールにでも。

「物欲は世界を救う」か?

新聞を見ていたら、下記の題をしたコラムがありました。
「物欲は世界を救う」
まさにキャッチコピー。世界経済を救うのは物欲だそうです。

あの地震・津波から、もうすぐ半年です。東日本大震災は、2011年のキーワードの1つですね。
とある現職知事は、震災に対する日本国民の対応について問われ、被災者の方はかわいそうだと言いつつ、「津波をうまく利用して、我欲を1回洗い落とす必要がある。(中略)これはやっぱり天罰だと思う」と語りました。のち発言を謝罪します。
いわゆる「天罰」発言について、どのように扱うかは私たちの自由です。けしからんと切り捨てる、見て見ぬふりをする、前後文脈を見ないことには判断できないと保留する、よくぞ言ったと賛成する。何・だれに対しての、どのような発言か、見定める。

たいせつなことは、どのように受け取り、どのように処理するか。

本屋さんに行くと、スピリチュアル系(?)の書籍コーナーがあります。そして、そこに並んでいるのは、お坊さんたちの本。
「心のお医者さん」、息苦しい世の中を生きるためのよすがを、お坊さん・仏教に求めているのでしょうか。
日本の仏教は、最初の最初・・・お釈迦様がお悟りを得た時代のものとは、だいぶ違っています。大変な幅がありますし、それを許すゆとりがある宗教なのだと思います。しかし根本は同じです。
その根本とは、人生とは悩むことであり、その苦しみからの解脱・お悟りは得ることが出来る。悩まなければ救われない。そこに禅宗の特色を出すならば、解脱・お悟りの方法は「坐禅」であるということです。
では、お坊さんにしか解脱・お悟りは得られないのかというと、そうではありません。
「行住坐臥」、動いている時も、静かにしている時も、すわっている時も、横になっている時も、いついかなる時も坐禅。ふだんの暮らしが坐禅・修行と言えます。
臨済宗中興の祖、白隠禅師は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」と言うほどです。

最初の最初、原始仏教では、人の苦しみの原因を、自らの煩悩ととらえました。そして、解脱・お悟りへの道を求めます。
三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものです。
貪とは、むさぼる心。瞋とは、怒りの心。癡とは、真理に対する無知の心。
三毒にとらわれると、必要以上に求め、自分のちからが及ぶ範囲を知らず、怒り憎み、また求めます。その繰り返し、悪い循環におちいります。
他人は自分をうつす鏡といいます。ひとは、ものや他人の姿を通して、自分と対話、客観視します。
坐禅も同じだといえます。姿勢・息・心をみつめることで、自分をみつめること。世界と一つとなり、また、一つ一つは別個の存在だと尊敬することです。比較することではありません。

坐禅とは、日常を点検、意識をもってみることです。

「自分」にアプローチする方法として、『調身、調息、調心』という言葉があります。
『姿勢を調えて、呼吸を調えて、心を調える』
坐禅をする上での方法として、『調身(姿勢)→調息(呼吸)→調心(こころ)』という順番を意識することは、効果があると思います。覚えやすいですし、何より・・もっともらしい!
ちなみに、『調身、調息、調心』は順番ではない、と思います。それぞれが自然・自分・世界への気付き・アプローチです。

生きるために必要なこと「息をする」。
いやいや、「息をする」だなんて、意志に関係なく呼吸はしている。当たり前のこと。条件として挙げるまでもないことでしょうか。
食う着るところに、住むところ。人間の営みとしての衣食住は、お金が必要ですし、用意するのも消費するのも大変です。
なればこそ、衣食住以前の問題として、「息をする」ことは当たり前ではありません。
生きていることを保証された時間とは、一息の呼吸間だけですから。

一息の間に、ひとは、動き、とどまり、休み、眠りにつき、楽しみ、悲しみ、生き、死に。地震・津波は起き、火災・水害も発生します。

禅の考え方は、手の届かないところにあるのではなく、自分の日常の中にあります。
そして、点検をしていきます。他人のことをいう前に、自分を見つめるようにいいます。

人は知らずに鬱憤とした気持ちを抑えていたり、ストレスを抱えていたりするかもしれません。何かがきっかけで、抑えきれなくなることもあるかもしれません。
出来ないときは出来ないし、嫌な感情が起こるときもあるでしょう。そんな自分が嫌で認めたくないことも。自分は他人より優れているはずだ。もしくは、自分という存在なんて毛ほどの価値も無い。
どちらも同じことです。他と比較してしまうが故のこころです。

あとになって思うことって、あると思います。なんであんなことを、あんなにこだわっていたのか、怒ってしまったのか。もちろん後悔したっていい。怒ったっていいんです。
物欲がありすぎても、なさすぎても、いいのかもしれません。ただ、そんな自分もいるのだと、気付くことが出来れば。どちらも同じ自分です。
では、いざ自分が選ぶとき、どうしましょうか。

「物欲は世界を救う」でしょうか。
部屋がもので溢れないと分からないでしょうか。全部捨てきらないと分からないでしょうか。

どちらも、同時に、存在します。選んだのか、選ばれたのか。不安定で、揺れるこころを鎮めることは大切です。立ち止まることです。同時存在という成り立ちの中に、人は生きています。
その成り立ちを考えると、先に逝った親しい人たちを思い、仏壇・遺影・墓前の前にたたずむのかもしれません。         
◎秋の彼岸は9月20日(火)から26日(月)までで、お中日は23日(金曜日で祝日)です。