web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

思い祈り願い、般若心経を読む-こだまでしょうか・行為の意味

ここ数日、テレビでは、社団法人ACジャパンのCMばかり流れていますね。ホームページを見ると、全国・支援・地域・NHK共同キャンペーンとキャンペーンごとに種々CMがあり。地域によって、流れるCMが違うんだそうです。

ACのCMをみて、回向をつくりました

ACのCMに触発されて回向文を作りました(ACジャパン旧・公共広告機構)。回向とは、自分が積み重ねた功徳を相手にめぐらしふりむけて与えることです。そのために読む文を回向文と、ここでは言います。お経と回向は、セットになっているのです。
下記の回向文は、無理矢理感もいなめず、稚拙かと思うのですが、できることをしたい・・の気持ちです。こういうかたちでお経を読んでもいいと思うのです。CMで使われている詩を、回向に引用しました。思い祈り願います。

  • 全国キャンペーン「あなたの手当て」
  • NHK共同キャンペーン「あいさつの魔法。」「見える気持ちに。」
  • 支援キャンペーン「大切なあなたへ。」「知層」「ちょっとだけバイバイ。」
  • 地域キャンペーン・東京コミュニケーション「こだまでしょうか」

などなど、上記以外にもCMが放送されているわけですが、「見える気持ちに。」「こだまでしょうか」からそれぞれ詩を引用させてもらいました。

(パソコンの画面をみて、)日本・世界の平和を、思い祈り願い、般若心経を読んでいただければと思います。

東北地方太平洋沖地震 回向-読経・般若心経

2011年3月11日金曜日の午後3時前、東北地方太平洋沖で、1000年ぶりといわれる巨大地震がおきました。いまも余震がおこり、日本だけでなく世界全体が注目しています。今回の地震では、揺れだけではなく、津波の被害も甚大でした。10mをこえる津波が各所を襲いました。津波が、海や川から陸地へと向かっていったのでした。港や防波堤をこえ、土砂や車、家々を巻き込み、黒い津波となって、いたるところを呑み込み、浸水したのでした。人々は建物や高台などの高いところに逃げ、津波を知る・知らずに関わらず逃げ遅れた人々がたくさんいました。地震と津波で交通が分断され孤立する場所がたくさんありました。海や川をただよい、たどりつく人々もいました。先に逝った親しい人たち、安否不明の人たち。
そこから離れた場所では、電車がとまり、建物や道路が倒れたり、壊れたりしました。遠い家まで歩いて帰る人たち、帰れない人たち、ガス・水道が止まり困る人たち。

連日、テレビやラジオでは被災地の様子が放送されています。
悲惨な光景を実際目にしたら、わたしたちは何を考えるのでしょうか。すべてを為す気がおきず、どうしていいか分からず、ぼんやりとしているのでしょうか。
テレビやラジオで被災地の様子を見聞きして、わたしたちは何を思うのでしょうか。しばらく経ち、ふと我に返って、心配になって、自分を忘れて、不安に振り回されて、目的もなく、本能のままに、衝動的に動き回るのでしょうか。
自分の意志で、自覚した心で行動することが、いかに難しく、大事なことなのか。空しさを埋めようと、ただひたすらに、やみくもに行動するから、自分でも収拾がつかなくなるのでしょう。不安にかられ食べ物の買い占めに走り、デマに惑わされる。空しさにさいなまれる。なぜあの人はいなくなり、なぜ私は生きている。
その空しさは、形ある物はいつか壊れ、移りゆくことに気付かされた証なのだと思います。人が空しさを感じることは、人生を歩むことです。そして次に、心の空しさを感じ、そして充たすために必要なことはなんでしょうか。
心とは、よりどころがなく、かといって決して無いとはいえないもの。あるようでない、ないようであるのが、心なのだと思います。
その心の空しさを、どうにかしたい。正しく充たすためには、どうしたらいいでしょうか。

詩人の宮澤章二さん作で、ごま書房新社が出版している「行為の意味―青春前期のきみたちに」という本の中に次のような詩があります。

「こころ」はだれにも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は見えないけれど
「思いやり」はだれにでも見える

仏壇やお墓は、祈り願う場所です。しかし、その祈りや願いは届くことはないのでしょう。それならば、祈り願うわれわれが、私たち自身の祈りや願いを聞かなければならないのかもしれません。
「こころ」「思い」はだれにも見えません。それでも、祈り願わずにはいられないのは、空しさを充たそうとする「こころ」「思い」によるのでしょう。そして、その「こころづかい」「思いやり」という行為として、だれにでも見えるとき、その空しさは、気づきや確信によって心が充たされ、心の中に生きるということになるのだと思います。

般若心経とは、心を学ぶお経です。「こころ」「思い」の本質とは、空しさを感じ、さらに空しさを生きることなのだと思います。
仏壇やお墓だけが、祈り願う場所とは限りません。あなたが思うところは、いつでも、どこでも祈り願う場所になります。テレビの前も、ラジオの前も、布団の中も、この画面の前も。

「こだまでしょうか」という詩があります。詩人の金子みすゞさん作です。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。

この詩の意味は、優しい言葉をかければ、優しい言葉が返ってくる、ということですが。
ことばは、人から人へと「こだま」します。ことばだけではなく、祈りや願いも「こだま」します。
先に逝った親しい人たちは、わたしたちに、ことば、祈り、願いを届けてくれるでしょうか。教えてくれるでしょうか。自分の意志で、自覚した心で、ことば、祈り、願いを行動することが、心の空しさを正しく充たすことなのでしょう。

それでは、これから般若心経をお読みします。2011-03-11東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々、被災し避難している方々、警察・消防・自衛隊員、ボランティアの方々、津波にも地震にも遠い場所で生活している方々。日本、世界のすべての人のためにです。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事をお祈りいたします。

<読経 般若心経>

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