web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

平成22年11月、伏見義民ゆかりの地を歩く

平成22年11月、京都に行く機会がありました。その際、伏見義民ゆかりの地をめぐってみよう!と思い、訪ね歩いたのでした。
伏見義民についてはコチラ(臨済宗妙心寺派 長光山陽岳寺ホームページ|天明伏見義民伝)。

伏見 御香宮神社

Œä‹{_ŽÐ

伏見義民顕彰碑のある伏見御香宮神社です。

門をくぐって、左手すぐにありますのが、伏見義民顕彰碑です。伏見義民顕彰会によって慰霊祭が毎年5月18日に行われている。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを。

伏見義民事跡について看板がありました。

伏見義民の碑は明治20年に建てられました。三條 實美公、題字 勝海舟翁 撰並書であります。

真言宗大黒寺

境内の本堂の前脇に「伏見義挙殉難士之墓地」の碑があります。ここには、伏見義民の御遺髪が納められています。

右の墓石に、戒名が刻まれております。

文殊九助(もんじゅくすけ):
 近江源氏佐々木氏の余流より出で、名工包利(かねとし)を祖とし、代々刃物鍛治をしていた。明和、天明の頃、下板橋2丁目に住み通称九助、宗兵衛包光といふた。生まれつき剛毅沈着、義侠心に富み、思慮綿密、また文筆の才あり。同志の中心人物として結束を固め、最後までその志を緩(ゆる)めず、終に素志を貫徹したのは、主としてこの人の人物によるといふも過言にあらず。江戸で再吟味の際、天明8年正月3日、公事宿(くじやど)で死んだ。深川陽岳寺の照道和尚その遺骸を得て自坊に葬った。宿坊は向島庚申町の慶念寺、戒名(かいみょう)は文質玄殊信士。
丸屋九兵衛:京町北7丁目に住み農業。九助の半身としてよくこれを助け、最後まで奮闘した人。九助と同じく江戸で再吟味中、天明8年正月23日に没し、同じく陽岳寺に葬られた。戒名は大用鉄心信士、宿坊は伏見中之町の源光院。
麹屋伝兵衛:大文字町に住み、麺製造業。九助、九兵衛と共に最初に江戸に行ったが、不幸病気になり、天明5年11月11日、深川の陽岳寺で死んだ。戒名は源宗勝善浄和居士。宿坊は榎町の宝国寺。
伏見屋清左衛門:両替町13丁目に住み、塩屋。天明7年9月19日、京都町奉行東役所で牢死。戒名は釈浄徹。宿坊は新町8丁目真西寺。
柴屋伊兵衛:京町南8丁目に住み、薪炭商。天明7年9月23日京都町奉行東役所で牢死。戒名は正誉義山浄因信士、宿坊は石屋町の勝念寺。
板屋市右衛門:村上町に住み製材業。天明7年10月20日京都町奉行東役所で牢死。戒名は晴山院了月信士、宿坊は堀詰町の顕正寺。
焼塩屋権兵衛:深草直違橋9丁目に住み、土器製造業。天明7年11月4日、京都町奉行東役所で牢死。法名は釈塩浄、宿坊は深草瓦町の善福寺。
(日野菜物語サイト内より引用、気まま歴史散歩‐45 伏見義民の碑

伏見義民碑@陽岳寺

文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛の3名の遺体は、一緒に丁重に陽岳寺境内に葬ったのでした。3人の墓は今も「伏見義民の墓」と刻して陽岳寺本堂の前にあるのです。

関連リンク

Œä‹{_ŽÐ
文殊九助の会トップ
御香宮神社(「わたしの青秀庵/うろちょろ京都散策」サイト内)
気まま歴史散歩‐45 伏見義民の碑(日野菜物語サイト内)

下は、大黒寺さんでの画像です。