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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

イオンの葬儀サービスに関する報道について-通夜・葬儀は悲しみを受容していくための始まり

通夜・葬儀は悲しみを受容していくための始まりである。
時代によって対応していく、解釈をしていくのが宗教なのではないか。
「宗教介入だ」仏教界困った イオンの葬儀サービスが「お布施」に目安 (1/2ページ) - MSN産経ニュース 「宗教介入だ」仏教界困った イオンの葬儀サービスが「お布施」に目安  (1/2ページ) - MSN産経ニュース
イオン「布施のお値段」ひっそり削除 仏教界側反発に配慮? (1/2ページ) - MSN産経ニュース イオン「布施のお値段」ひっそり削除 仏教界側反発に配慮?  (1/2ページ) - MSN産経ニュース
今更ですが、新聞でも気になっていた記事。イオンの葬儀サービスに関する記事が産経ニュースにあったので、ここを参考リンク先に使ってみようと思います。はてなブックマークコメントを、ここに挙げてみます。

仏式は絶対せんわ。強欲良くない。
「銭」でカッチリ料金決めた葬儀屋はその家の経済事情を無視して請求できるから高く付くともあったが如何に。
「寺と檀家の長い付き合い」があるケースなんてほとんど無くなったから「僧侶の読経も、遺族が信仰のない場合にはサービス財にすぎない」。そうだよねー。結婚式の牧師立会いもサービス業。もはや宗教じゃない。
人間の一番弱い部分をぎゅっと握って、金をぼったくる寺
寺も商売。お布施や戒名料で生活している人がいる
宗教もサービス業のひとつ。優遇する理由は無い。
オレの葬式は兄弟がどこかレストランでうまいものでも食ってくれ。親父も参加してもいい。それ以外の人間は部外者だから参加しなくていいよ。貯金は好きに使っていいが骨とか荷物は捨てろ。
お布施が曖昧ってのは、葬儀業者が曖昧会計でぼったくる問題にも通じている気がする。
亡くなった方が安らぐ為の金でもあるわけで、送る側にそういう信仰的な気持があるなら払うもんだが、確かに幾らか判らんのは不安だろうな。檀家になってると情報入るもんだけど、そういう家も少なくなった。
宗教介入・・・口滑らせて「営業妨害だ!」とは言わなかったんだなw
布施は言われて出すものでなく出す人が額などを決める宗教的な行為。価格を決めて商品のように扱うのは間違いといいつつ、その額によって対応が変わってくるのも事実だからな。
お札を数えてナンマイダ〜
俺は墓なんぞ要らん。散骨がええ。
寺を維持するという事は、自己理解にも必要。多くの寺院には時代時代の名簿や家系図等が保存されている。祖先が何をして生きてきたかを知るためには寺を維持しなければならず、当然それには金がかかる。
ご祝儀もお布施も空気読んで出す額決めろという同調圧力は大嫌いなのでイオン支持。(あたしゃ香典の領収書がある北海道生まれですので)
空気読んで適切な額を出せと言われる方が非コミュの俺にはきついんですけど。▼俺の経済状況から出せるだけ奮発しても陰ではしみったれと言われるのがオチなんだから、目安見て何を頼むか決める方が俺的にはよい。
葬式は市民葬,お寺へのお布施やボランティアは生前の積み重ねで,というのが一般になればいいなと思う / 特別な場でしか仏教に関わろうとしない一般人と,特別な場でしか謝金を徴収できないお寺と,両方とも歪んでる
「布施や戒名料は、寺と檀家(だんか)の長い付き合いの中で決まっていくもので、営利企業が扱う筋合いのものではない。」 付き合いがあったらそこで困ったりはしません。
いろんなお坊さんがいます。生前に、家族、親戚、縁者、お寺…関係しそうなもろもろの人たちと話し合っておきましょう。
田舎の寺から坊主を呼ぶのも大変だからと、都心に住む知り合いの坊主に葬儀一切を頼んだら、「勝手にやるな」と後から田舎の寺から50万円請求され、墓を移すのも大変なので2度払って泣き寝入り。
この困っている仏教界(?)って、檀家の少ない寺はお布施で成り立っているところがあるからなんだろね。私の父の葬式の際に付き合いのある寺の住職呼んだら「お布施は要りません」と仰った。葬儀屋が慌てたけど
問題は、企業が提示するとか金額とかではなく、寺で説教も聞かず、葬儀だけで戒名を貰おうなどという不信仰。建前で金額を問題にしていないのではなく本当に問題にしていない。払える分でいい。本当の宗教だから。
大衆向け宗教は信仰の皮をかぶったぼったくり企業。もちろん利潤追求しないまじめなところもあるけど。そもそも宗教がただの年中行事や冠婚葬祭のイベント屋になっている現状がおかしいのだが
お布施を商品的に扱うことがなぜいけないのか。
「カタギの衆がこっちの縄張り荒らすんじゃねえよ」ってことなんだろうね。
宗教が「救い」を与えるサービス業だとすれば、対価の元となる「サービス財」そのものが見えにくく(あるいはなくなって)いるのではないか?
なんだかなー。そんなに「宗教」が嫌いで建前だけ葬式挙げたいなら、ニセ僧侶でも仕立てて適当に誤魔化せば?戒名のつけ方はネットで調べられるし。信仰のある人は自ら布施の額を考えるわけで、仏教界も努力不足。
一つのお寺を任されておきながら月に手取り4万円しかもらえず毎日の食費もままならない生活をしてる従兄弟のことを思うと一方的にお坊さんが悪いみたいなここのコメントは悲しいなぁ
戒名のランクによって要求する金額変えてるくせに都合のイイ時ばかりビジネスじゃないって。
寺が「お気持ちで結構」なんて言うのは建前。だいたい決まっているんだよ。だから少なめに出すとイヤミを言う寺も多い。
大体の目安は葬儀屋が教えてくれるけど、明確化するのはいいかもね。ただ、金がなくてお経をあげられないって思われたら本末転倒だよね。ってか、坊主が儲けてるんじゃなくて、葬儀屋が儲けてるんだよね。
難しい問題。普段信仰も何もしてない人が葬式だけ仏式というのが不思議だという視点もありうるわけで。結婚式もそうだけど、イベントのために宗教やっているんじゃないのよね。
葬式は常日頃お世話になっているお寺さんにお願いするものであって,普段何もしていない一見さんにやってもらえる状態がまず不思議なもの。素直に音楽葬とか寺に頼らない方法で展開した方が健全じゃないかな。

 いろいろなコメントがありました。イオンが「明瞭会計」とかろやかに歌い上げていたことの裏にある、言いたくない部分については、最後に少ししか触れないことにします。たとえば・・・実は中間マージン取ります、だとか。明記していない料金がある、だとか。

通夜・葬儀は親しい人の死による悲しみを受容していく過程の始まり

 仏式だとか、神道式だとか、キリスト教式だとかは置いといて、ひとつ考えていただきたいことがあります。それは、だれか自分にとって親しい人が死んだとき。その悲しみをどうやって受け止めればいいのか、ということです。
 人の死を考えることは、なかなか難しいと思います。死について考えることは容易ではないし、まして親しい者の死となると、当事者になってみなければわからないでしょう。たとえ自分が当事者になったことがあったとしても、日が経つにつれ、さまざまな感情は薄れゆくかもしれません。
 どうにもならない感情を、どうにかすること。その手助けとなるのが、葬儀・法事なのだと私は思うのです。
 それはなぜでしょうか?

故人との関係-個人的な関係の問題=悲しみ

 故人との関係には、二つあると私は思います。それは、個人的な関係と社会的な関係。
 個人的な関係とは、だいたいは家族のこと。ひとつ屋根の下における関係のこと。対して社会的な関係とは、家族からさらに広がった、親族であるとか、会社や地域のことです。
 故人の関係性に対応して、葬儀はどのような役割を果たすかといえば、先ほど言った「悲しみを受け入れる」ため・・これは故人の個人的な関係の問題を解決する手助けになります。そして、もうひとつは、社会的な関係者に知らせることです。
 個人的な関係者に対する手助け、それは自力に過ぎません。たしかに自分の感情は自分でどうにかするしかないでしょう。ひとつ屋根の下にいる家族は自分も同然です。家族とは一線をこえられません。そのとき、親族でも、社会的な関係者でもない、言うなればその道のプロからの助けがあるならば。この苦しみをどうすればいいのか、と。
 この社会的な関係者に対する告示には、故人との関係の心的な問題に対して、何かしらポジティブな方向性をつけることができるはずです。この告示によって、ソーシャルサポートが介入されて、悲しみの受容にもポジティブな方向性・プラスの影響が与えられるのだと思うのです。
 葬儀には、この社会的な告知と、故人への関係者へのソーシャルサポートを行うこと。この2つが同時に行えるというメリットがあります。そして一周忌、三回忌、〜回忌と、定期メンテナンスの機会。お施餓鬼などの寺院側発信の不定期なケア。お墓参り、月行などの遺族側発信のケア依頼。寺院による葬儀・法事というシステムは、故人に関係する人に対してのソーシャルサポートとして、提供されるべくして存在するものなのだと思います。宗教とは、人によりそった存在なのだということなのです。
 付け加えるようになりますが、時代によって対応していく、解釈をしていくのが宗教なのだと思います。
 たとえば、脳死や臓器移植。仏教的にはどうなんだろうと考えても、ブッダの存命中に脳死・心臓移植手術などは行われていません。ブッダは脳死・臓器移植には対応していないのです。それを、なんやかやで、あれこれ解釈して結論を出すのは・・。ブッダが亡くなり、お弟子さんたちが、「あのときブッダが〜〜と言ったのは、〜〜という意味だ」と記録しはじめました。実際問題、〜〜と言ったか分からないし、〜〜という意味だったのかも分からない。この点はどの宗教も同じです。では、どうしたら。葬送儀礼を行ずる我々には勉強が必要なのです。しかし、合計でいくらだとか、もっと金をよこせだとか、宗教を商売道具として、商売道具未満に考えている人がたくさんいるようです。イオンのこの記事に対して、よくやったと心の中で思うわたしはおかしいでしょうか。物議をかもしだしてよかったと思いました。
 しかし、イオンによって明記された金額を払えない人々は淘汰されてしまうし、結局イオンは金額だけで内容について全く吟味していないという現在の葬式仏教の様相をよく表している&企業理念を掲げておきながらオカシイことをしているとしか言えません。ファミリーマート、三越など。これから参入してくる大企業があるのでしょう。

最後に

 お坊さんは、サービス業だと言われることがあります。たしかに、葬儀は内容如何だと思います。事実です。でもお布施は、その対価ではありません。もっと全体を見てほしい。寺院とのつながり、宗教という枠組み。全体をです。
 その努力を怠ってきた宗教界が悪かったのだと思います。そして、宗教ということについて考えてこなかった我々日本人も悪かったんだと思います。イエス・キリストの誕生日は知っているけど、お釈迦様の誕生日は知らない人は多いはずです。そういうことです。
 会社や地域といった社会的な関係や、家族といった個人的な関係を、もっと活用する手はないと思います。その手助けに、ぜひ寺院や教会を利用してみてほしい。そう思います。