web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

副住職ごあいさつ


 みなさん、はじめまして。陽岳寺の副住職です。
 陽岳寺のホームページが開設されたのは、今から12年前のことです。そして今日まで、住職の手によって様々な手記が更新されてきました。
 檀信徒の方々の手によって陽岳寺は支えられています。護寺会員の皆様には、妙心寺「花園会」の月刊誌『花園』をお送りしています。そして、ほぼ毎月刊行になっている護寺会便りを同封しているわけですが、住職は書くことが好きなのでしょうか。ブログも始めました。
 ほぼ毎月刊行の護寺会便りは、私の師匠、父・陽岳寺住職の作であります。その護寺会便りにて、私の動向はお知らせしていました。そんな父の血をひいてか、私もホームページを作ってみよう。ブログを始めてみようと思ったのでした。
 思い立ったが吉日とも申しますが、決意してから行動に出るまでもなく、自然と形になったようであります。修行道場から帰ってきてからも、修行であると思っています。どうしても心地よい居場所というのは、人を内向きへといざなうようです。それがいけないという訳ではありませんけれども、日々是好日。過去の苦労も、未来の不安も、すべては今、陽岳寺を守っていきたいとの思いです。
 皆さんの助けがあってこそ、陽岳寺は今ここ深川にあるのです。


 さて、陽岳寺では大事にしている行事があります。5月の第4土曜日のお施餓鬼と、11月の最終日曜日の祈祷会および演芸会です。本年も無事11月28日に、祈祷会および演芸会を行うことができました。また、総代の方々が発起人となって、次期世代和尚の衣・袈裟料にと寄付を募り、415万5千円もの御寄進をいただきました。祈祷会にお集まりいただきました皆さん、また護寺会員の皆様、そしてご寄進いただきました有志の方々には、厚くお礼を申し上げます。ありがとうございます。
 祈祷会が私の初お披露目となったわけですが、そのときにお話ししたことがありました。
 それは、お墓参りにいらっしゃるとき、ドアホンを押して、「○○から来ました○○です」と、ただそれだけでいいですから。顔を出していただけたら、ということです。
 私は小さいころから本堂の隣の庫裡に住んでいましたし、お彼岸のときは皆さんの前に姿を見せていました。けれども、鎌倉にいっておりました3年半の空白は大きく、皆さんの顔と名前を覚えることが仕事のひとつでもあります。どうか、皆さんお姿を見せていただけたらなと思います。
 そして、この挨拶には、それだけではない理由があるのです。
 お寺という言葉からイメージできることは、葬儀や法事といったことだと思います。死んでからお世話になるところ、周囲にいただろう死んでいった人たちのためにある場所でしょうか?そして、お寺とどう付き合えばいいか分からない。分かってはいるけれども、近寄りがたい。実際、檀信徒の皆さんにとって、お寺との関係とは、親族らが死んでから始まる関係となっているように思います。通夜・葬儀、そして、お骨にして、納骨、時が経てば年回忌のお勤めをする、と。
 しかし、お寺としては、そこまでに至る長い時間を共有して、ゆっくりと形成していく、お寺と檀信徒の皆さんとの共通理解・共通認識を深めていきたいと思うのです。この時間感覚は、現代のような効率や合理性を優先する考え方とは相いれないものかもしれません。
通夜・葬儀・法事が少しずつ自分の気持ちを整理する場であると気づいてくれればと、住職は決まり切った法要では意味がない、つらい体験を乗り越えていく「過程」にしようと考えてきました。
 本来、日本の葬送儀礼は、遠慮なく悲しみなどの感情表現ができる数少ない場であったのだと思います。故人を知る人が集まること。家族の知らない故人の一面を教えてもらうことによって、遺族にとって気持ちを整理できる場なのだと。そして、新しい家族に伝えていくためにも。
 そのためにも、お墓参りのついででもかまいません。お寺のものと、もちろん家族親族の方々とも、話しをしてほしいと思うのです。その「過程」が、法要の内容として皆さんに返っていきます。
 陽岳寺の先祖供養や年中行事などが、失われつつある絆を再生していく拠り所となるか、その役割は小さくないと思っています。


 すこし難しい話しでしたが、思い出したときで結構ですので、お寺、お墓との繋がりを大事にしてほしいのです。今年もいろいろありましたと、来年もまた見守ってほしいと。皆さんが健康でいらっしゃることが、なによりのご供養であるということです。
 仏壇やお墓は、祈り願う場所です。しかし、その祈りや願いは届くことはないのでしょう。それならば、祈り願うわれわれが、私たち自身の祈りや願いを聞かなければならないのかもしれません。その気づきや確信によって心が充たされる。このことを心の中に生きるということだと、陽岳寺は考えています。
 わたし達の生や死は、この広い心の世界に、産まれれば、縁が広がり、亡くなれば、また縁が広がっていることを気づくことです。住職が言っていました。「父や母を子が思う心は、父や母が亡くなれば子の心の中に広がります。でもよく考えてみれば、その父や母も、自分を産んで育てた父や母を思っていたのだ。それが分かれば連鎖して広がっていくはずだ。そうしたら、今度は自分の源から追ってみれば、この繋がりが分かるし、自分以外の人も同じだ」と。


 先日、法事の際、「新しい和尚さんのことは、なんという名前で呼べばいいのでしょう?」と聞かれたことがありました。宗派では、新たに命ずると書いて「新命(しんめい)さん」「新命和尚」という呼び名があります。この呼び名は、私たちお坊さんにはしっくりくるのですが、世間では知られていません。
 そして、住職は答えました。「私はこう思っています。これからたくさん、新命さんと接するでしょう。接した人たちが、彼を、お寺の次の世代だと、多くの人が認めたとき、自然と呼び名が決まってくると思っています」と。
 新命さん、副住さん、和尚さんとなんでも結構です。どうぞ皆さん声をかけていただければと思います。
陽岳副住 合掌