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web版 陽岳寺護寺会便り

下町深川の禅寺 陽岳寺からのお知らせのブログです

【コラム】お寺の結婚式

【コラム】お寺の結婚式

陽岳寺でも結婚式を承っていることをご存じでしょうか?
とある調査によれば、近年婚姻届を提出している人たちは年間約65万組だそうです(再婚など含む)。そして、婚姻届を提出した人たちによる結婚式の実施率は約70%。さらに、お寺での結婚式を行った人は1%にも満たないとのこと。
現代において結婚式と申しますと、チャペル、神社、ホテルなどパーティ会場やレストランでの式がメジャーなようです。江戸や大正頃までは、自宅での婚礼の儀礼にてお披露目を済ますのが一般的だったそうですが。
さて、結婚式を実施する形態の内訳は、チャペル式が約55%、人前式が約25%、神社式が約20%、その他約5%。
「**式」と名前の違いがあるということは、それぞれに意味合いが違うということです。
人前式とは、人の前での式。宗教色をなくして、招待客全員が結婚の証人となる自由なスタイルの結婚式。普通の結婚式ではないある種のイベントを行い、それを結婚式だとするクレイジー結婚式の流行も人前式を後押ししているようです。
神社式、神式。神社にて祀られているカミに対し、神職祝詞にて結婚を報告する式です。大正天皇の御成婚にあやかって結婚式そのものが一般化された、という通説もございます。
チャペル式。結婚式専用の施設にて、キリスト教の作法にのっとり、唯一の創造神との契約と祝福をうける結婚式。ホテルの中であったり、結婚式場として建設されていたり、とザ・ウェディングの象徴でもあります。
お寺の結婚式。仏前式とは、仏さまと有縁無縁のご先祖方に対し、結婚を報告する式のこと。
結婚式の形によって、多くの違いがあるとお分かりになられるかと存じます。

私は2011年に結婚式を陽岳寺にて挙式いたしました。関連して披露宴会場をどうしようかとホテルや式場のブライダフェアを巡ったことを覚えております。また友人のチャペル式などにも出席することで、ひとつの疑問を持つこととなりました。それは、

「結婚という儀式について、結婚する当事者たち自身は、その式の意味について了承しているのか、納得感を持っているのだろうか」

という、幸せな新郎新婦にとっては、ほっといてくれよといった疑問です。
通説ですが、そもそも結婚式という形自体、後付けであります。しかし、後付けであろうとも、不思議な縁で結ばれた二人がこれから頑張って生きていこうという覚悟を示す場として、結婚式はとても大事なものでありましょう。
そして、西洋やザ・ウェディングへの憧れから、チャペル式を選ぶ方々が大変多いようです。お正月は神社へ、お葬式はお寺へ、クリスマスを祝う。と、3つの宗派混淆教こそ日本人の姿ではありますが、もしそれぞれの行事の意味を知らず、納得していなければ、ただ集っただけの会となりそうです。

それでは各結婚式の意味を見てみましょう。
キリスト教式ということは、少し考えるとハードルがなかなか高いように思われます。キリスト教式でありますから、キリスト教の基本、この世界をお造りになった絶対の唯一神への信仰は大切です。
チャペル式がたとえ結婚式場としての教会であったとしても、式はキリスト教にのっとっておりますから、創造主という巨大な存在との契約です。契約ですので、破ったときは?
さらに中近東や西欧由来の一神教では、信仰とは神との契約であり、現地人にとって契約そのものへの違和感がありません。ひるがえって、日本在住の我々はどうでしょうか。
・・・そう申しましても、日本では、信仰がなくともチャペル式が受け入れられ、唯一神のみ恵みと祝福を授けられるという点でいえば、幸せなのかもしれません。

家と家の結びつきである婚礼の儀式を、色濃く受け継いでいるのが日本の結婚式です。
土地に住むといわれるカミに対し、神職祝詞によって結婚が報告される、神前式。
ケガレを祓い、祝詞を読み上げ、夫婦も玉串にふたりの心をのせてカミへと拝礼、誓いの言葉を述べる。そして盃を重ね合わせることで家と家の結びつきを象徴とする三三九度。
住んでいる町、生きている日本という国にいる私たちにとって、土地にいらっしゃるカミへと結婚を報告する神社式は道理であろうと思います。

仏さまや血のつながりを遡ってのご先祖方に対し、結婚が報告されるお寺の結婚式。
お寺の結婚式においても三三九度が行われますし、指輪の交換だけではなく、仏さまとの寿珠(数珠)の交換という名の授与もございます。
結婚される方々によって先祖への結婚の報告や、僧侶による追善供養も行われるため、お寺の結婚式は、家と家との結びつきについての視点が強いように思われます。しかし大切なのは、お寺の結婚式の中身は、血筋や家の押しつけではない、ということです。
たしかに今わたしたちが結婚を報告することができるのは、命のバトンが繋がれ続けてきたという奇跡の結果です。ただ結果は結果であり、結婚式というの奇跡の縁への感謝を示すことでしかなく、先祖や家や家族への感謝を強制するものではありません。お寺の結婚式の意味とは、結婚するふたりに、血縁を背負わせ縛ることではないのです。
結婚にいたる因果と縁起の法を喜び、先祖や仏さま方に感謝の報告と慶讃をし、私たちが生きているこの今と次の一歩を踏み出させる自由さを認め合うこと。悪縁を断ち、良縁を結ぶ。それがお寺の結婚式です。
どうでしょうか、結婚式にもいろいろな形があるようです。
自画自賛になってしまいましたが、お寺の結婚式のご紹介でございました。
陽岳寺でも結婚式を承っておりますし、出張での儀式執行も可能です。ウェディングプランナー様へのおつなぎも。どうぞご相談ください。(副住職)
yougakuji-wedding.hatenablog.jp

●10月10日(祝月)13~17時。お寺の本堂で大人・子どもも一緒にボードゲームを遊ぶ会を催します。無料。お待ちしてます。

平成28年9月号 花園&陽岳寺護寺会便り、発送しました


平成28年9月号花園&陽岳寺護寺会便りを発送しました。郵便局の集荷の方に引き渡し、お願いしました。
今回は副住職作です。


ご感想はブログにでも、メールにでも。

【お彼岸法要のお知らせ】

申し込み不要・自由参加
お彼岸法要、お中日に
9月22日 2時半~
今年から春や秋のお彼岸に法要を、と考えています。どうぞご参加ください。

 日時 平成26年9月22日(木・祝日)   
   午後2時半~ お彼岸法要
 備考 事前申し込みは不要です
だれでも参加できます

護寺会会員、親戚の方々、墓参者限定。
申し込み不要、短い法要です。
お墓参りにあわせて、ご参加くださるのが宜しいかと存じます。お中日(9月22日)の2時半からスタートです!
ご自由に参加できます、お気軽にどうぞ。

年回忌とは、節目と言っていいでしょう。
毎年やってくる祥月命日も節目、お彼岸も節目です。
おひとりでも法要は行えますが、みんなで集まって法要をするのもいいと思います。
秋彼岸のお中日、お寺での時間を、私たちが共にできる。この『ご縁』に感謝をしたい。そしてこれからも陽岳寺を『ご縁』として、あらたな『縁』をつむいでいただきたい。
いままでの『縁』と、これからの『縁』。
多くの『縁』を確かめるという意味でも、お寺をきっかけに、集まるということをなさっていただきたいのです。
そんな想いで、お彼岸の法要をはじめました。
ふだん忙しくて法要に参加できない方でも来寺できるようにと、日時を設定しています。どこかでお昼を食べてから、お墓参りと一緒に・・・。
わたしたちがこうして生まれてきた不思議、出会いの不思議、そして今年も色々あったけれどもお彼岸をむかえる事の不思議。
すべての『縁』に感謝をしたい。
また、陽岳寺の法要を体験していない方もいらっしゃるはずです。
どうぞご参加ください!法要は短い時間です。お待ちしております。

【コラム】五つの戒め

【コラム】五つの戒め

 因果なもの・・・めぐりあわせの悪い様子を言いますが、そんな世間を渡る助けに「五つの戒め」はいかがでしょうか。
連日悲しい事件が報道されています。どうしてこんなことが・・・と不思議に思ってしまうのは、「この私と何の違いもない同じ人間なのに」という前提があってのこと。そして同時に「あの人は私とは違う」とも思うものですが、はたしてどちらが本当か。

 仏教の世界観のひとつ、因果。原因と結果をまとめて因果となりますが、因果にも様々な種類があることをご存じでしょうか。
 大まかにいうと、2種類あるのだそうです。ひとつ、原因が先にあり結果が後からやってくるもの。ふたつ、原因と結果が同時に起こるもの。
後者、因果が同時に起こることとしては、心と心の作用がいえます。心の状態と、その心に働きかける感情などは、ほぼ同じ瞬間、つまり同時に生まれるでしょう。
また、よく言われる因果は前者のうちのひとつである「あれをしたから(原因)、これがある(結果)」です。ある行為をした後、いくばくかの時を経て、わたしたちの目の前に結果として起こる(かもしれない)。そこから仏門では、善因楽果・悪因苦果として、善いことをすれば楽しい気持ちになるし悪いことをすれば苦しいのですよと申します。
しかし、これ以外にも因果の関係はございます。
 たとえば、セミと太陽。夏になればセミは土より出でて鳴いていますが、セミと太陽の間にはどのような因果があるのでしょうか。それは「お互いの邪魔がない」という因果です。セミは太陽がさんさんと陽をさすことを邪魔しませんし、太陽もセミが鳴くことを遮りません。そんなことを言ったら、すべての事物がお互いに因果を持っていることになるではないか。・・・そのとおりです。私がこうして生きているのは、全世界のあらゆるものが関わっている、というわけです。
 
 原因と結果。良いことと悪いことの行為があり、時を経て、結果として目の前に表れる。因果応報とは、自分の行為を引き受けることの大切さを説く言葉です。
ここで気をつけたいことは、「あれをしたから、これがある」行為の結果が、そのまま次の原因となる、とは認めていないことです。
たとえば犯罪の結果捕まり刑務所へ、そして出所。その犯罪→逮捕→収監→入所→出所という結果が再び犯罪をする原因となる論理を仏教はとりません。
 と同時に、信じられないかもしれませんが、原因と、結果が出るまでの時間が整えば、私たち全員に犯罪をする可能性はあるとも言えます。もちろん私とは純真無垢で本来清浄であるという仏心に気づくこともできます。 
原因と時間という条件が整えば、いまここの現在に、とある結果が起こるという仏教の見方。
なればこそ、悪事をしないようにと常に思っていることに、意味を見いだすことはできないでしょうか。

  1. 不殺生戒:自分も他も、生き物でなくても、身も心も、なにごとも傷つけない傷つかせない。
  2. 不偸盗戒:ものも想いも盗みとらない。自身の正しい想いを奪わせない。
  3. 不邪淫戒:不適切な性関係を結ばないように学び、備える。
  4. 不妄語戒:身体・口・こころで、偽りの言葉を持たない。
  5. 不飲酒戒:酩酊して前後不覚に陥らぬよう、酒におぼれないこと。酒がはいると正常な判断はできないと重々承知すること。

 ご葬儀のときにもお話しますが、五つの戒めというものがございます。もしも、この五つの戒めを信じて、心に留め置くことをしていたならば、どのような原因と時間という条件が整ったとしても、思いとどまることができる。
 ある人はこう言うかもしれません。「机上の空論である。戦時下や、切羽詰まった状況では、どのように転ぶか分からないだろう。」
 そうかもしれません。理知のみで人は生きていくことなどできません。しかし、信じなければならない。仏教であれば仏さまの慈悲が、キリスト教であれば神の愛が、隅々まで渡っているのだと。そして私たち一人ひとりが良いことをする・輝くことで、さらに隅々まで良い世界が広がるのだと。仏心はだれにでもあり、なんの因果か分からないまま起きた結果に脅かされたとしても、これからの悪縁は断ち切ることができるということ。
 悪いことをした人も、善いことをした人も、私と同じ人です。理解できないことを私だってするでしょう。なればこそ「軽い気持ち」や「魔が差す」ことは誰にでもあると知っておきたい。「軽い気持ち」を安定させる、こころの隙間へ「魔が差す」とき我に返ることのできる何かとして、この五つの戒めは現代人にも通じるのではと思います。
 「最大の悲劇は悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」とは、とある牧師の言葉です。間違っている因果、犯人についての偏った差別を前提とした報道を、暗黙することも五つの戒めに触れます。
 先ほど、すべての事物がお互いに依っている、私がこうして生きているのは全世界のあらゆるものが関わっていると学びました。
 まずはこの私が、親として人として、善いことは善い、ダメなことはダメだと、五つの戒めを保ち続けることのできる人でありたい。そう思います。